戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

熱田 秀信 あつた ひでのぶ

 石見銀山内の佐毘賣山神社の社家。官途名は平右衛門尉。毛利氏の被官として銀山支配の一端を担ったとみられる。秀信の子は銀山の賦課徴収を委任された「当役人六人」の一人であったが、熱田氏は慶長四年(1599)以降、史料上にみえなくなる。

山神社の社家

 天正二十年(1592)二月、「熱田平右衛門平秀信」は「狩野源介藤原重信筆」による絵馬を銀山内の清水寺に奉納している。清水寺は慶長四年(1599)に鉱山師の安原知種が施主となった本堂が建立されているが、天正末年は熱田秀信が外護していたことがうかがえる。

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 熱田秀信は、山神社(佐毘賣山神社)の社家であったらしい。天正十年代の二月二十三日、毛利家臣林就長は山神社における銀山大盛の祈念を「熱平右」(熱田平右衛門)に依頼している(「佐毘賣山神社文書」)。

 天正十九年(1591)の「毛利氏八箇国御時代分限帳」には石見国安濃郡に「熱田平右衛門 三十石七升八合」という記載があるので、この頃までには毛利氏から所領を宛行われ、その被官となっていたとみられる。

銀山の「当役人六人」

 慶長三年(1598)五月、毛利輝元は「温泉銀山納所」の額を銀2万2,000枚と決定。銀山支配を担っていた家臣佐世元嘉に宛て、「当役人六人」に納所のことを任せ置き、また「銀山改」*1の際の給地として屋敷を宛行ったと伝えている(「吉岡家文書」)。

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 上記の「当役人六人」の一人は、秀信またはその子息であった。慶長四年(1599)二月、佐世元嘉は「銀山温泉津御納所」を銀3万枚と定め、このうち2万8,000枚については、不足した場合、「六人之者共」が弁済するよう通達。その宛先は、今井越中守、吉岡隼人助、宗岡弥右衛門尉、熱田平右衛門尉息、惣内吉兵衛尉、石田喜右衛門尉であった(「吉岡家文書」)。

 秀信の子とみられる熱田平右衛門尉息を含む6名は、莫大な銀の立て替えを引き受けるだけの何らかの経済基盤をもっていたことがうかがえる。

 ただ、朝鮮侵攻が始まるまでは、銀山から毛利氏に納入される銀は毎年5,000枚であったという(「毛利家文書」)。これと比較すると、慶長三年(1598)の銀2万2,000枚や慶長四年(1599)の銀3万枚は大幅な増税であったことが分かる。背景には慶長二年(1597)に豊臣政権が朝鮮半島に再出兵した影響があるとされる。

 とはいえ納所の銀3万枚は、さすがに無理があったらしい。慶長五年(1600)七月五日付毛利輝元直状には下記のようにある(「吉岡家文書」)。

銀山公用之儀、去年大段之儀付而、不相調、地下人令迷惑之由候、然者当年之儀、弐万三千枚ニ、今井越中守・吉岡隼人・宗岡弥右衛門両三人可預置之由申通聞届

 多額の課税に「地下人」(現地居住者)が「迷惑」したので、毛利氏側が譲歩したことが分かる。一方で熱田氏と惣内氏の「当役人」としての活動もみえなくなる*2

 熱田氏は前述のとおり熱田秀信が天正十年代には活動しており、惣内氏も天正三年(1575)には銀山内の栃畑居住を確認できる(「浄心院姓名録」)。いずれも早くから銀山の現地において活動してきた存在であり、地下人「迷惑」という事態に直面して、難しい立場に追い込まれていた可能性も指摘されている。

参考文献

 

石見銀山栃畑谷にある佐毘賣山神社

*1:直轄地である銀山・温泉津地域で行われた検地にもとづく措置とみられる。文禄三年(1594)に「銀山御改」が行われ、銀山内の清水寺長安寺などに寺領が宛行われている(「清水寺文書」「豊栄神社文書」)。

*2:石田喜右衛門はこれ以降の史料で吉岡・宗岡・今井とともに宛所としてみえる。