戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

田辺 治綱 たなべ はるつな

 石見銀山の栃畑谷の住人。官途名は対馬守。永禄十一年(1568)に安芸国厳島神社に寄進した。

銀山栃畑の住人

 かつて安芸国嚴島神社の廻廊には、多額の寄進をした者を「廻廊一間檀那」と記した棟札が掲げられていた。江戸期の享保三年(1718)に作成された「厳島神社廻廊棟札写」によると、永禄十一年(1568)九月に「石州銀山住」の「田辺対馬守治綱」が安芸国厳島神社に廻廊一間を寄進している(「大願寺文書」)。

 「浄心院姓名録」*1にも銀山栃畑の住人として「田辺対馬守」の記載があり、治綱の居住地が分かる。栃畑では同族とみられる田辺源左衛門も天正十六年(1588)一月十七日の紀年とともにみえる。

 なお文禄五年(1596)の出雲国秋鹿郡大野荘の内神社(現松江市大垣町)棟札には、施主の小林成久が当時「銀山桜栃畑田辺屋敷」に居住していたことが記されており、栃畑には「田辺屋敷」と称される屋敷があったことが分かる。

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 また天正十九年(1591)の「毛利氏八箇国御時代分限帳」には、「田辺対馬」が安芸国高田郡に1.55石、備後国世羅郡に1.3石の計2.85石、「田辺与三次郎」が石見国安濃郡において30.075石の給地を毛利氏から与えられていたことが記されている。彼らは石見銀山の田辺氏である可能性が指摘されている。

参考文献

  • 長谷川博史 「毛利氏支配下における石見銀山の居住者たち」(池亨・遠藤ゆり子 編 『産金村落と奥州の地域社会―近世前期の仙台藩を中心に―』 岩田書院 2012)

栃畑谷を流れる山神川

*1:正式名称は「高野山浄心院往古旦家過去帳姓名録」(「上野家文書」)。万延二年(1861)に配札に訪れた浄心院役僧が所持していた帳面を写し取り、さらに謄写を重ねたもの。現在知られているものは三冊の内の一冊であり、表紙には「昆布山 石銀 栃畑 本谷」という地名表記がある。銀山の他の地区である「大谷」「休谷」「下河原」については、他の二冊に記載されたものと考えられている。