戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

石見榑 いわみくれ

 中世、石見の材木は「石見榑」と呼ばれ、遠隔地にも流通していた。高津川および匹見川上流域といった益田の後背地には、これを可能にする豊富な森林資源があったことが推定されている。

鎌倉期の石見材木の流通

 文永六年(1269)、円満院坊官・範政が、益田本郷の「津料・浮口」の処理を調査するよう命じている史料がある(「益田金吾家文書」)。「津料」は津(港)の利用に際して徴収され、「浮口」は関所を通る材木に対する賦課を意味する*1。この時期には、益田の港では材木が流通しており、そこから「津料・浮口」が徴収されていたことがうかがえる。

 文永八年(1271)、京都周辺で石見産の材木が流通していたことが確認できる。この年、山城国南部の高神社で本殿の造営が進められていたが、その造営の記録の中に、購入した材木についても記録されており、「阿波檜榑(ひのきくれ)」「熊野木」などと共に「石見榑」が記載されている*2。これらは材木の産地に基づく商品名あるいはブランド名と考えられる*3

 石見榑の価格は70寸で700文であり、一方で阿波檜榑は73寸で3貫500文であった。石見榑は、比較的安価な材木として流通していたと考えられている。

九州に運ばれる材木

 南北朝期成立の肥前国櫛田神社の縁起には、正和三年(1314)の出来事として、櫛田神社造営の材木を高津川上流の須河(須川)で採取した際の霊験譚が記されている。

 また天正六年(1578)の宗像大社総社辺津宮本殿の遷宮の際には、「厚薄板并柾彼是三千枚 丁長四万数」の材木が「石州益田」において調達されている(「第一宮御宝殿御棟上之事置札」) 。さらに「益田殿」(石州益田の国人) も「丁長一万数」の材木の寄進を行っている(「第一宮御造営御寄進引付置札」) 。

 社殿の造営用材等として、石見の材木が九州に輸送されていたことが分かる。

材木の供給地

 益田から積み出された材木の供給地の一つが、高津川および匹見川上流域であったとみられる。年未詳八月に益田藤兼が、子の元祥に宛てた書状には「澄川木引」とあり、匹見川上流域の澄川に木ひき(製材業者)がいたことが分かる(「益田高友家文書」)。

 また天正十一年(1583)十一月、「おほけ名」の境を定めた際、益田氏有力者の益田兼貴・兼友父子が、「材木取」の為に現地をおとずれて関係者から聞き取りを行っている(「益田高友家文書」)。

材木の運搬ルート

 享禄三年(1530)十月、益田氏と吉見氏が匹見川とみられる河川の権益について、「書違」(互いに契約状を交わし合って誓約する)を交わしている(「益田家文書」)。この中の項目の一つに「依洪水なかれ木・より物等」についての取り決めがある。これは洪水の際の流木(「なかれ木」)と漂着物(「より物」)についての事項で、それぞれ漂着先のものとしてよいとしている。

 匹見川上流域で材木が伐り出されていたことを併せて考えると、「なかれ木」とは伐採された材木が流されることを想定していた可能性がある。匹見川や高津川では、上流域の豊富な材木が多く河下しされていたと考えられる。

参考文献

  • 中司健一 「文献からみた中世石見の湊と流通」(中世都市研究会『日本海交易と都市』 2016 山川出版社
  • 西田友広 「鎌倉時代の益田と石見産材木の流通」(『企画展 石見の戦国武将ー戦乱と交易の中世ー』 島根県立石見美術館 2017)

f:id:yamahito88:20211121212101j:plain

匹見川と澄川地区。中世、澄川には「木ひき」(製材業者)が存在していた。

f:id:yamahito88:20211121210837j:plain

高津川河口部の高角橋から上流方向を見る。上流の匹見川・高津川流域から切り出された材木は、高津川河口部に向けて河川を利用して運ばれたと考えられている。

*1:安芸国厳島神社が設置した関所では「浮口」として、材木10枚につき1枚が徴収されたことが知られる。

*2:榑は材木の形態の一種。

*3:中世の他の史料には「伊予檜榑」「美濃木」なども見える。