戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

西田 長識 にした ながさと

 石見国邇摩郡西田の在地領主。官途名は甲斐守。天文十七年(1548)八月、西田村八幡宮の拝殿を建立した。石見国邑智郡川本郷を本拠とする小笠原氏の一族ともされる。

天文十七年の拝殿建立

 西田村八幡宮(現在の水上神社)の天文十七年(1548)八月十日付棟札によると、この時、西田宮の社内に拝殿が建立された。棟札には「源朝臣西田甲斐守長識」のほか、「神主治部大夫鏡運」、「大工木工允」の名がみえ、本願主として「清源寺陽厳永□」が記されている。

 清源寺は西田地内の曹洞宗寺院だが、水上神社(八幡宮)の北に隣接して「神宮寺」という字名があり、ここが清源寺の故地であったと伝えられているという。

 なお八幡宮には、永和二年(1376)の棟札も伝わっているが、この時は福田吉左衛門、山本利兵衛といった氏子が本願となって「御宝殿」を造立している。在地領主の八幡宮への関与が史料上確認できるのが、天文十七年(1548)の西田長識からとなる。

 また石見地域では、中世末の土豪や在地領主の所在地が「どい」(「殿居」や「土居」の字があてられる)の地字名で呼ばれる例がしばしばみられるという。西田の「町」の南側の斜面付近に「殿居山(どいやま)」という地字があり、西田長識など当地の土豪・在地領主と何らかの関連がある場であった可能性が指摘されている。

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石見銀山周辺への小笠原氏の進出

 西田長職の諱には、石見国邑智郡川本郷の国人である小笠原氏当主代々が名乗っている「長」の字が用いられている。このことから長識は、小笠原氏の一族であったと考えられている。

 小笠原氏の本拠は邑智郡川本郷であったが、15世紀には大田方面での活動もみられた。明応六年(1497)六月の祖式八幡宮(現在の大田市祖式町)造営の棟札に大檀那として小笠原氏がみえ、大永二年(1522)八月には小笠原長徳が大田北八幡宮(現在の大田市大田町)に剣や扁額を寄進している。

 そんな中、大永七年(1527)に石見銀山の開発が始まる(「石州仁万郡佐摩村銀山之初」)。享禄元年(1528)、周防大内氏は銀山の南方(西田の東方)に矢滝城を築いて防衛拠点とした(「銀山旧記」)。

 一方で小笠原氏も銀山の権益獲得を目的としてか大田方面への進出を活発化させる。享禄四年(1531)四月頃、小笠原氏は邇摩郡祖式の「太田高城」を陥落させ*1(「庵原家文書」)、同年には「大内氏之役人」が駐屯する矢滝城を攻めて石見銀山を攻略している(「おべに孫右衛門縁起写」)。

 さらに天文十年(1541)、小笠原氏は西田地域を支配していた大家氏を滅ぼす。そして天文十一年(1542)からの大内氏による出雲尼子氏への遠征に合力したことで、邇摩郡の大家、佐摩、白坏などを拝領したという(「三原大丸山伝記」)。天文十四年(1545)九月には、小笠原長徳によって大家本郷の石清水八幡宮造営が行われている。

 これらのことから、八幡宮拝殿が建立された天文十七年(1548)当時、邇摩郡西田は小笠原氏の影響下にあったとみられる。長識による社殿造営は、西田における小笠原氏の支配を固める目的があったとも考えられる。

参考文献

西田村八幡宮(現在の水上神社)

清源寺

*1:小笠原長隆・長徳が連署で、「太田高城落居之時致合戦」で高名を挙げた井原十郎右衛門(縁信)に感状を発給している。