戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

柿並 四郎三郎 かきなみ しろうさぶろう

 大内氏被官。天文三年(1534)の豊後薄野浦で警固衆として戦った。江戸期編纂の「譜録」は、柿並氏を大内教幸の子で長門国阿武郡川上村柿並谷に居住した弘慶に始まるとする。なお「譜録」では天文年間に隆幸、隆正の名がみえるが、史料上での確認はできない。

豊後国薄野浦の戦い

 天文三年(1534)五月、石見守護代・問田隆盛と右田興実が豊後国に侵攻。五月十八日、右田興実率いる大内方警固衆が「豊後国薄野浦」(大分県豊後高田市臼野)で豊後大友氏の軍勢と合戦に及ぶ。この合戦で柿並四郎三郎は、矢傷を左胸に受け、大内義隆から感状を与えられている(山口県文書館「毛利家文庫」23)。

 この五月十八日の合戦では四郎三郎だけでなく玉井弾正忠や問田十郎に宛てた大内義隆感状写も伝わっている(山口県文書館所蔵「大内氏実録引用書」4)。また安芸国能美島能美仲次薄野浦だけでなく同浦「奥郷」において合戦しているので(「山野井文書」)、大内方警固衆は大友方を海上で破った後、上陸して「奥郷」に侵攻したものと推定される。

kuregure.hatenablog.com

周防国吉敷郡潟上庄の所領

 豊後国薄野浦で警固衆として活動していることから、柿並氏は海上勢力としての性格も有していたと考えられている。柿並氏の所領があった周防国吉敷郡潟上庄は、当時は小郡湾に面しており、柿並氏も瀬戸内海の海上交通に関係をもつ領主であった可能性が指摘されている。

 潟上庄における所領の存在は、明応八年(1499)三月に柿並法橋柿阿が大内義興から周防国吉敷郡潟上庄内の名田、下作職等の知行について、安堵されていることから確認できる(「柿並家文書」)。また大永二年(1522)八月、潟上庄鋳銭司村の惣氏八幡宮(現黒山八幡宮)の建立の際の棟札に、「当代官柿並法橋道清」の名がみえる。

陶氏被官となるか

 なお四郎三郎は大内氏の一門といわれる右田興実の指揮下で戦っていることから、天文三年(1534)当時は大内氏の直臣であったとみられる。しかし「譜録」系図では、天文三年以降に陶氏に従属したとある。

 実際、天文年間後半から史料にみえる柿並房友は陶氏の偏諱を受け、陶氏の被官として行動している。大内氏との主従結合が弱まった等の事情で、柿並氏は大内氏直臣から陶氏被官となった可能性がある。ただし、もともと陶氏被官となっていた柿並氏の別系統の可能性もある。

kuregure.hatenablog.com

参考文献

  • 魚屋翔平 「陶晴賢被官の柿並氏について」(『山口県地方史研究』120 2018)

周防灘の荒波(豊後高田市) form 写真AC