陶氏家臣。官途名は藤蔵人。筑前国博多において須子備後守とともに陶氏の銭米の管理・出納に関わった。
陶氏所領管理を担当する奉行人
糸原勝秀は須子備後守とともに筑前国博多津中嶋での陶氏の銭米の管理を行っていた。天文三年(1534)六月十七日付で「博多津中嶋」にて陶氏所領の銭米を受け取ったことを示す請取状が糸原藤蔵人勝秀と須子備後守代忠久(須子備後守代官の白川忠久)の連署で発給されている(「松江八幡宮蔵文書」21号)。ほかにも、博多津で須子氏と糸原氏が陶氏の銭米を計量していたことがうかがえる史料もある(「松江八幡宮蔵文書」111号)。
また天文二年(1533)十一月、「惟明」と「高秀」という人物が、十一月分の月棒として所々から米101石を受け取ったこと、そのうち73石5斗は合屋庄(筑前国の遠賀川流域にあった陶氏所領の一つ)から受け取ったものであること(あるいは合屋庄に送ったこと)を陶氏家臣・肥留景忠に報告している(「松江八幡宮蔵文書」14号)。惟明は須子備後守と同一人物である可能性が指摘されており、高秀も勝秀と同族の糸原氏である可能性が高いという。
厳島への使者
天文十九年(1550)、陶氏は興隆寺二月会の大頭役を務めるため、安芸国厳島の陶氏被官中に「用脚」を賦課。当初、厳島の被官中は檜桶2000個を調進する旨を申し出ていたが、この申し出は却下された。五月、陶氏家臣の江良房栄と毛利房継は、厳島社家・野坂房顕に対して上檜3000個の調進が必要であると伝え、重ねて催促するために「糸原衆蔵人」を派遣している(「厳島野坂文書」59号)。
「糸原衆蔵人」が糸原藤蔵人の書き間違いであれば、勝秀または彼の跡目を継いだ人物ということになる。このことから、糸原氏(および須子氏)が、陶氏の家臣であったことが分かる。