戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

須子 備後守 すこ びんごのかみ

 陶氏家臣。筑前国博多において糸原勝秀とともに陶氏の銭米の管理・出納に関わった。実名は惟明である可能性がある。

博多津中嶋における陶氏所領管理

 須子備後守は、糸原勝秀とともに筑前国博多津中嶋での陶氏の銭米の管理を行っていた。天文三年(1534)六月、糸原勝秀と白上忠久(須子備後守の代官)が、「博多津中嶋」にて陶氏所領の銭米を受け取っている(「松江八幡宮蔵文書」21号)。年月日未詳ながら、博多津で須子氏と糸原氏が陶氏の銭米を計量していたことがうかがえる史料もある(「松江八幡宮蔵文書」111号)。

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 また天文二年(1533)十二月、須子備後守と糸原勝秀の両人は、別当宗吉という人物に何かを勘渡している(「松江八幡宮蔵文書」15号)。別当宗吉は、筑前国飯塚などの陶氏所領の米の管理を行っており(「松江八幡宮蔵文書」217号)、この時は「政所御下符」(陶氏の財政機関である「政所」の指示書とみられる)に基づいて、須子備後守らに勘渡を申請。「政所御下符」通りに受け取った後、「政所御下符」に「請取状」を添えて須子・糸原の二人に渡した。

 なお、上記のように須子備後守と糸原勝秀は二人一組で活動している例が多くみられる。この糸原勝秀と「惟明」という人物が陶氏家臣・肥留景忠に提出した連署状が残されており(「松江八幡宮蔵文書」50号)、「惟明」は須子備後守と同一人物ではないかと推定されている。

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 また前述の別当宗吉が管理していた筑前国飯塚近くに同じく陶氏所領であった合屋庄がある。天文二年(1533)十一月、「惟明」と「高秀」の両名が、十一月分の月棒として所々から米101石を受け取ったこと、そのうち73石5斗は合屋庄から受け取ったものであること(あるいは合屋庄に送ったこと)を肥留景忠に報告している(「松江八幡宮蔵文書」14号)。惟明が須子備後守と同一人物であったとすれば、須子氏ら博多津中嶋の陶氏家臣たちは、他の筑前国所領との間で、米などを必要に応じて輸送させたりしていたことになる。

陶氏と博多

 陶氏は博多を筑前国所領の年貢の集積地の一つとしていた。天文八年(1539)十二月、東福寺宝勝院の光溈が、陶氏が代官請していた東福寺領得地保の正税米100石のうち、60石は博多津で受け取ったので、既に請取状を送ったことなどを陶氏奉行人・伊香賀昌貞と同じく陶氏奉行人で得地保代官でもあった毛利房継に伝えている(『東福寺文書』463号)。この時、陶氏は筑前国の所領の年貢を得地保の正税米に当てたと考えられている。博多は、周防国の寺領荘園年貢を筑前国所領の銭米で納める際の引き渡し地としても重要であった。

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 また年月日未詳ながら、陶氏家臣とみられる「房清」と「房安」(ともに姓不詳)が、「鈴(錫)湯瓶」を山口と「筑前」で入手したことがうかがえる史料がある(「松江八幡宮蔵文書」215号)。房安は、博多に近い田富や旅石などの陶氏所領の管理を担当する人物であることから(「松江八幡宮蔵文書」6号)、「筑前」とは具体的には博多を指す可能性が高いという。陶氏にとって博多は諸物品を入手するためにも重要であったことがうかがえる。

 なお、この時入手された錫湯瓶は、氷上山興隆寺二月会の準備に関わる史料「氷上御用注文断簡」(「松江八幡宮蔵文書」219号)にみえる「すゝのたうひん」のこととと考えられている。陶氏当主の陶興房は、天文二年(1533)に二月会の大頭役に選ばれている(山口県文書館蔵「興隆寺文書」160号)。

参考文献

  • 中司健一 「陶氏の領主財政ー「松江八幡宮蔵天文十二年大般若経紙背断簡文書」の分析ー(上)」(広島史学研究会 編 『史学研究』第265号 2009)
  • 中司健一 「陶氏の領主財政ー「松江八幡宮蔵天文十二年大般若経紙背断簡文書」の分析ー(下)」(広島史学研究会 編 『史学研究』第266号 2009)

博多古圖(津田元貫 『石城志 巻1』 筑紫史談会 1919)
国立国会図書館デジタルコレクション
須子備後守らが拠点とした中嶋郷は那珂川と比恵川にはさまれた地域であったという