戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

江良 主水正 えら もんどのじょう

 陶氏被官。弘治二年(1556)四月、須々万沼城の戦いで討死した。実名は不明だが、天保四年(1833)に正司考祺が著した『豹皮録』には「江良主水隆綱」とみえる*1

毛利氏の離反と周防侵攻

 天文二十三年(1554)五月、毛利氏が大内氏から離反し、安芸国佐東郡および佐西郡の大内方拠点に侵攻。佐西郡の要衝・桜尾城の城番であった江良賢宣は抵抗できず、毛利方に城を明け渡して撤退した(「熊谷家文書」)。

 これに対し、大内氏重臣陶晴賢の有力被官であった江良房栄は、周防・安芸の大内方警固衆とともに毛利方と戦うも、翌天文二十四年三月、晴賢の依頼を受けた大内家臣・弘中隆兼に討たれた(『房顕覚書』)。晴賢、隆兼も同年十月の厳島合戦で敗死する。

 その後、周防国に侵攻した毛利方は、弘治二年(1556)三月頃までに同国東部の大内方を鎮圧。四月、都濃郡須々万の沼城に迫った。

須々万沼城の戦い

 大内方では、毛利方の周防中央部への侵攻に備え、都濃郡富田若山城に陶晴賢の嫡子・長房を入れ、同郡須々万沼城に山崎伊豆守を籠城させる防衛体制を整える。

 弘治二年(1556)、江良主水正も同じく陶被官の伊香賀左衛門大夫とともに沼城に入城。また大内義長からは須子下総守、三輪兵部丞等が応援として派遣されてきた(『大内氏実録』)。

 なお陶氏および江良氏は、もともと都濃郡須々万に所領を持っていた。永正八年(1511)九月、江良藤兵衛尉陶興房(晴賢の養父)から「須々万内廿三石」の地を与えられている(「風土注進案」)。

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 弘治二年(1556)四月四日、毛利方の小早川隆景の軍勢が沼城を攻撃。江良主水正はこれに応戦するも、大寧寺の変で討死した陶隆康の遺児・陶鶴千代丸*2に討ち取られた(「萩藩閥閲録」巻61)。鶴千代丸方も家来の「弘中・山崎某等」が討死しており、激しい合戦であったことがうかがえる。

 四月四日の攻撃以後、同月二十日に毛利隆元による攻撃があり、七月、九月も合戦があったが、城方は持ち堪えた。しかし翌弘治三年(1557)三月三日、城内で「陶方家人」を率いていた江良賢宣が、小早川隆景の調略に応じたことで沼城は開城(「毛利家文書」)。周防国における大内方劣勢は決定的となった。

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参考文献

  • 鹿野町誌編纂委員会 編 『鹿野町誌』 1991
  • 和田秀作「戦国時代の江良氏について〜毛利氏との関係を注進に〜」(『令和4年度山口県文書館オンライン歴史講座②』 2022)
  • 山口県文書館 編 『萩藩閥閲録』第二巻 1968

須々万沼城跡の遠景

*1:明治十九年初版の『大日本人名辞書』の陶隆康の項に、隆康の子元弘が「江良主水隆綱」を討ち取った記述があり、参照文献として『豹皮録』を挙げている。

*2:後に元服し、姓を変えて宇野元弘と名乗る。