戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

玉蜀黍 なんびんきび

 中米を原産とするイネ科の穀物。トウモロコシ。16世紀後半にヨーロッパ経由で日本に伝来したとみられる。日本では玉蜀黍と表記し、ナンバンキビあるいはタマキビと呼ばれたが、関東ではトウモロコシと呼称されるなど、地域によって様々な呼び名があった。

日本への伝来

 江戸期の享保年間に著された『近世世事談』には、下記の記述がある。

玉蜀黍(なんばんきび)ハ天正ハジメ、蛮舶モチ来タル。関東ニテハ唐モロコシトイフ

 当時、玉蜀黍は関東において「唐モロコシ」と呼ばれており、天正年間(1573〜1591)の初め頃に外国船によって日本に伝来したと認識されていたことが分かる。

 日本に持ち込まれた玉蜀黍(=トウモロコシ)は、熱帯原産のカリビア型フリントコーン(硬粒種)であったとみられており、コロンブス(クリストバル・コロン)がカリブ地方からヨーロッパに持ち帰ったものに由来するものと推定されている。

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 なお、禁中の女官たちが記した『お湯殿の上の日記』には、永禄四年(1561)の箇所に生花用としてトウキビの名がみられるが、このトウキビはモロコシを指していると考えられている。

 また江戸初期の寛永五年(1628)に編纂された『清良記』巻七之上にも、「四月中可植の事」および「八月種子取ものゝ事」とされる作物中に「唐秬」(とうきび)が挙げられている。この唐秬もまたモロコシを指している可能性があるという*1

17世紀の普及状況

 中国明朝では16世紀にはトウモロコシの栽培が広がっていた。1596年(慶長元年)に中国で刊行された李時珍の『本草綱目』には「玉蜀黍、種ハ西土ニ出ズ。種ハ亦タ罕(かた)シ」と紹介されている。同書は慶長七年(1602)に日本に輸入され、これにより日本でも本草学が本格化したとされる。

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 寛永七年(1630)、林羅山が著した本草書『多識篇』の巻之三穀部に玉蜀黍の見出し語があり、多末岐比(たまきび)、玉高梁(ぎょくこうりょう)の和名が万葉仮名で記されている。17世紀半ばまでにはトウモロコシを指す玉蜀黍の漢字表記が成立していたことが分かる。

 医師・人見必大の遺稿をもとにして元禄十年(1697)に刊行された本草書『本朝食鑑』の穀部には、玉蜀黍(=トウモロコシ)の詳細な説明がある。これによれば、「俗に玉蜀黍は唐毛呂古志、蜀黍は唐岐美という」、「唐の字が頭についていても中国由来ではなく、南蛮由来であり、近代長崎より移ってきた」もので、高さ7〜8尺で、六、七月に開花し穂ができる、とする。

 また形状については「魚のような穂の上に白髭が出て、後に紫赤色に変わる」、「苞の中にザクロの種子のような粒が黄白色で光沢がある」とし、「火にあぶって食べるか、乾燥して粉に挽き餅にするのもよい」、「沢山食べ過ぎると消化不良となるが、有毒というのは誤りである」など食べ方についても言及している。

 江戸期を代表する農書で元禄十年(1697)に宮崎安貞が著した『農業全書』にも、玉蜀黍の記述があり、「菓子にすべし」や「早くうゆるをよしとす」など栽培や利用法について説明がある。ただし、その記載はヒエやモロコシ、キビに比べて4分の1にすぎず、しかもモロコシの記事の末尾に併記されているだけで、独立の項目とされていない。このことから、まだ玉蜀黍(=トウモロコシ)の地位は低かったと考えられている。

各地への伝播と利用の広がり

 安永五年(1775)の越谷吾山による方言辞書『物類称呼』によれば、玉蜀黍は畿内ではナンバンキビまたは菓子キビ、東国ではトウモロコシ、越後でマメキビ、奥州南部でキミ、備前でサツマキビと呼ばれていたとされる。

 玉蜀黍の呼称について、文化元年(1804)に編纂された農書『成形図説』の巻之十九にも記述がある。この中で、玉蜀黍は粒がダイズのようであるから豆黍(マメキビ)というと記されている。また唐黍、南蛮黍、高麗黍などと外国名の名を冠するのは日本起源ではないためとしている。唐諸越、薩麻黍などの別名や中国文献での玉高粱、郷麥、御麥、番麥、包子米などの呼び方も挙げている。

 『成形図説』には玉蜀黍の栽培方法についても記載がある。二月に播いて七、八月に成熟すること、粒色に紫赤と白黄のものがあること、一固体につく穂数は肥えた土では3〜5本、痩せた土では2〜3本であること、などが説明されている。

 利用方法としては、粒を炒る、粒を鍋に入れて炒り、膨らみ裂けて梅の花のような形とする、粒を炒って磨り、砂糖とまぜて菓子とする、飯のように炊く、酒や焼酎をつくる、など多様な方法が紹介されている。根や葉を湯煎したものは、淋病に効く、などという記述もある。

 なお、江戸後期の肥前平戸藩松浦清(静山)は、自著の随筆集『甲子夜話』の中で、「雷の落ちたる時、其気に犯されたる者は、廃亡して遂に痴となり、医薬験なきもの多し」とし、「然るに玉蜀黍の実を服すれば忽ち癒ゆ」と玉蜀黍の凄まじい薬効に言及している。

 江戸末期の弘化元年(1844)から安政六年(1859) に刊行された大蔵永常の『広益国産考』では、藩を豊かにするために栽培する作物の一つとして玉蜀黍(たうきび)を推奨しており、下記のように日向国高千穂や豊後国岡で重要な作物となっていることを紹介している。

幾内にてなんばんきびといひ、関東にてはたうもろこしといふ。日向高千穂にては是を作りて朝夕の糧とする。豊後岡領にては薄地の野畑に多くつくりて食の助けとする也。

 寛政八年(1796)、イギリス海軍の帆船プロビデンス号艦長ウィリアム・ブロートンは、探検航海の途中に蝦夷地の室蘭港に寄港した際、絵鞆でインディアン・コーン(トウモロコシ)が小規模ながら栽培されているのを見た、と航海日誌に記している。18世紀末には、蝦夷地(北海道)にも玉蜀黍栽培が広がっていたことがうかがえる。

参考文献

  • 鵜飼保雄 『トウモロコシの世界史 神となった作物の9000年』 悠書館 2015

トウモロコシと鶏冠 俵屋宗達 (シカゴ美術館サイトより)

倭漢三才図会 : 105巻首1巻尾1巻 (国立国会図書館デジタルコレクション)

成形圖説 巻19 (国立国会図書館デジタルコレクション)

*1:『清良記』内には「秬の事」という項があり、「黒秬」、「白秬」、「はせきび」などの品種と並んで「唐秬」が示されている。