アステカなどメキシコ中央高地で生産されたトウモロコシ。トウモロコシはアステカにおける主食であり、同国では支配下に置いた国にトウモロコシ等の貢納を要求する一方で、チナンパと呼ばれる灌漑農業を展開した。
アステカへの貢納品
アステカはメキシコ中央高地のメキシコ盆地に栄えた国家。1428年(正長元年)頃にテスココ湖島上の都市テノチティトランと同湖西岸のトラコパン、同湖東岸のテスココによる三都市同盟(エシュカン・トラトロヤン*1)が形成され、この同盟を中心にメソアメリカ最大の王国となった。
1519年(永正十六年)のスペイン人侵略時、アステカは9代目のモクテソマ2世の時代だった。その勢力圏はメキシコ中央高地だけでなくベラクルス州北部からチアパス・グアテマラ太平洋岸低地のショコヌスコ地方の飛地領まで20万平方キロメートルにおよんだとされる。
一方で、アステカは領土の占領よりも貢納の要求に主眼を置いた。王都テノチティトランには、各地から毎年、7000トンにおよぶトウモロコシ、それぞれ4000トンほどのマメ、ヒユ科のアマランス、シソ科のチア、さらにさまざまな奢侈品や特産品が貢納されたという。
トウモロコシの生産とチナンパ
トウモロコシはアステカの主食であったとされる。農耕に関連した祭礼では、雨とトウモロコシの神が崇拝された。農耕暦では、アステカの元日の2月12日、トウモロコシの種子を播く4月30日、雨季の絶頂の8月13日、トウモロコシの収穫の10月30日には、とくに盛大な祭礼がとり行われた。
トウモロコシの生産に関し、アステカでは15世紀からチナンパと呼ばれる灌漑農業が行われた。チナンパは、浅い湖沼の区画を木杭などで囲って、カヌーで芝、アシ、イグサ、水草類を運んで敷きつめ、推定の肥沃な泥土をつみあげて造成した長方形の盛土畑を指す。その側面にヤナギなどの木を植え付けて土壌流出を防止した。
チナンパの生産性は、トウモロコシに換算してヘクタールあたり2.4~4トンで、沖積平野の灌漑農業の1.4トンに比べて格段に高く、投入労働量も少なかったとされる。そこではトウモロコシのほか、マメ類、カボチャ、ハヤトウリ、トマト、トウガラシ、アマランス、チア、薬用ダリアなどが生産された。
チナンパは16世紀には120平方キロメートルに広がり、盆地南部のチャルコ湖とショチミルコ湖、さらに中央部のテトチティトラン周辺や盆地北部にも広がった。現在のメキシコ市南郊のショチミルコ周辺では、チナンパ耕作が現在も行われており、ユネスコ世界遺産にも指定されている。
なお肥料として人糞も用いられた。テノチティトランの北に位置するトラテロルコの市場では、土器に入った人糞が売られていたという。
トウモロコシの調理法
メソアメリカでは古くからニシュタマルという調理技術が用いられていた。ニシュタマルは中央メキシコで話されるナワ語群の言語に由来する言葉で、「石灰からの灰」を意味するネシュトリと「調理されたトウモロコシの生地」を意味するタマリから成り立っている。
それはトウモロコシの粒をアルカリ水溶液で処理する方法であり、具体的には雌穂からとった粒を、砕いた石灰岩、木灰、または貝殻を含む液につけるかその中で料理する。それにより粒の外皮がゆるみ、洗うだけで粒がとれ、粉にしやすくなる。そして、このプロセスを経ることで化学変化が起こり、トウモロコシの栄養価を飛躍的に高めることができた。
タマルはニシュタマルのペーストをトウモロコシの葉で包み、蒸して調理したもので、中には肉や野菜などのその他の食材を包む。メキシコ盆地では、カカオ豆が貨幣としても流通したが、16世紀初頭の同盆地ではカカオ豆1粒で、新鮮で大きなトマト1個、トウガラシ5つ、トウモロコシの蒸し団子タマル1つ、または薪1束と交換できたという。
参考文献
- 鵜飼保雄 『トウモロコシの世界史 神となった作物の9000年』 悠書館 2015
- 青山和夫 『古代メソアメリカ文明 マヤ・テイティワカン・アステカ』 講談社 2007
- 山本紀夫 『先住民から見た世界史 コロンブスの「新大陸発見」』 株式会社KADOKAWA 2023
*1:ナワトル語で「三つの場所による統治」を意味する。