戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

宅野 たくの

 石見国邇摩郡の北東端に位置する港町。現在の島根県大田市仁摩町宅野。沖合に韓島(辛島)、麦島、逢島があって北風を防いでいる。17世紀初頭には町場が形成されており、石見銀山への物資補給基地であったともいわれる。

益田氏と宅野氏

 平安末期には益田氏の支配がおよんでおり、元暦元年(1184)の「源範頼下文案」に藤原(益田)兼栄・兼高の所領の一つとして「毛(宅カ)野別符」がみえる(「益田家文書」)。

 貞和七年(1351)三月の「益田兼忠去渡状」には、宅野別符の地頭職が益田兼忠の「重代本領」とあり、益田氏本宗家が代々領地してきたことが知られる(「長門益田家文書」)。また至徳元年(1384)十一月の「益田祥兼譲状」には「宅野別符惣領職」とみえ、宅野別符がさらにいくつかに分割されていたことがうかがえる(「長門益田家文書」)。

 しかし永禄十三年(1570)二月、益田藤兼は子の元祥に譲る所領の目録として「益田藤兼譲渡所領注文」を作成するが、ここでは「宅野村不知行」とある(「益田家文書」)。この頃には、宅野村における益田氏の支配が失われていることが分かる*1

 なお宅野別符には、益田氏の支族である宅野氏があったと伝えられる。集落内には「坪の内」「城の内」などの地名があり、宅野氏の一族の者の墓と伝えられる墓石があるという。ただし、それ以外の痕跡は遺されていない。また上記の地名や遺跡も集落の東部に集中しており、宅野の中心部に宅野氏がどのように関連していたかは不明とされる。

17世紀初頭の宅野とその住人

 宅野村では、慶長十年(1605)からその翌年にかけて検地が実施された。その際の検地帳には、「屋敷」のうちに「町分」と注記されているものが90ヶ所余りある。少なくとも、この頃には宅野に町が形成されていたことが分かる。

 宅野の有力家であった泉氏は、家伝によると15世紀半ばの応永期に、地頭として宅野に来住したとされる。しかし慶長検地当時の泉本家の当主にあたると思しき藤左衛門尉は、検地帳ではそれほど多くの土地を名請けしてはいない。泉本家の屋敷は浜にもっとも近いところに位置していることなどから、農業よりもむしろ海運や商業に関わって発展した家であった可能性が指摘されている。

 泉氏とならんで江戸期の宅野でもっとも有力であった一族に藤間氏がある。藤間本家は、遅くとも江戸中期の安永三年(1774)には、村の南方の斜面の麓に設置された達水(たちみず)鈩を経営していた。

 伝承によれば、宅間藤間家は出雲国杵築町の藤間家から分家して、慶長元年(1596)に宅野に来住したとされる。しかし前述の慶長十年の検地帳には、その先祖らしき名前はみられない*2。このことから、当初は移住というよりも、一時的な寄留のような形であり、鉄商売を通じて財を成し、宅野村の耕地を集積したことが推測されている。

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 また宅野の「かどや」高野氏と「沼田屋」石井氏は、前述の泉氏および藤間氏よりもさらに古くから有力だった家であるという。明治初期の屋敷地をみると、両家はちょうど字「市場」の両端に位置する形になっている。

 両家ともに、その詳細な系譜は不明とされる。しかし藤間氏が杵築から宅野にやって来た際、かどやに「わらじを脱いだ」と伝えられており、藤間本家の宅地は、もとは「かどや」高野氏の所有地であったともいわれる。

 また「沼田屋」石井氏は、宅野の向西寺の開基であり、自らの所有地を寺地としたことや、八幡宮へも土地を寄進したことなどが伝えられている。

「銀山正主」神屋寿禎の足跡

 『商人亀鑑 博多三傑伝』には、石見国宅の浦の「波底寺」に伝わる棟札の銘文が下記のように記されている。

天文五年丙申五月十五日上棟、筑前国石城府袖之湊博多津之住人神屋寿貞建立

 天文五年(1536)五月十五日、筑前博多の商人・神屋寿禎が宅野の「波底寺」(宅野の真言宗寺院である波啼寺に比定する説がある)を建立したことが分かる*3

 神屋寿禎は、大永七年(1527)から始まる石見銀山開発の初期から「銀山正主」(銀山の所有者か)として関わっており(「おべに孫右衛門縁起」「石州仁万郡佐摩村銀山之初」)、石見銀山には小田藤右衛門尉を代官として派遣していた。また銀山の初期の積出港だった「鞆ヶ岩屋」(鞆ヶ浦)に弁財天を勧請したともされていることから(「銀山記」)、当時の宅野もまた銀山と関わる港町だった可能性がある。

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「宅野殊外繁昌候」

 慶長十二年(1607)頃の六月九日、徳川氏の銀山奉行・大久保長安は、吉岡右近に宛てた書状で下記のように述べている。

宅野殊外繁昌候由、是又本望候、弥能様見計、丹後談合候而可申付事

 大久保長安は、宅野が繁昌しているという報告に満足の意を告げ、銀山役人の吉岡右近に同じく銀山役人の丹後(竹村丹後守)とよく話し合った上で、より良い方向へ見計らうよう指示している。具体的な内容は不明だが、宅野が繁昌しており、そのことに銀山奉行の大久保長安が大きな関心をもっていたことがうかがえる。

 これより5年前の慶長七年(1602)、邑智郡川下村、同郡出羽村、同郡井原村、同郡戸河内村、邇摩郡荻原村とともに宅野が代官所付として、銀山役人の吉岡隼人に渡された。宅野以外の6カ村は、いずれも内陸部の交通の要衝に位置しており、石見銀山の銀の陸送を視野に入れたものとも考えられている。

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 日本海沿岸部に位置する宅野が代官所付とされた理由は不明ながら、銀山への物資補給基地として、宅野が注目されていたともいわれる。

 前述の藤間家は慶長元年(1596)に出雲杵築から来住したとの伝承があるが、杵築の本家は長男が相続し、次男は佐渡へ渡り、三男が石見へ移ったとも伝えられている。杵築は奥出雲産の鉄の集散地であり、杵築に集荷された鉄は杵築北方の良港宇竜から全国各地へ送り出されていた。藤間家が佐渡や石見へ進出したと伝えられていることは、奥出雲産の鉄が、興隆しつつあった鉱山へ供給されていたことが背景にあるのかもしれない。

参考文献

波啼寺門前からの宅野の眺望

宅野の町並み

宅野八幡宮

宅野の町並み

波啼寺

 

宅野の町並み

韓島(辛島)

宅野城跡の遠景。宅野氏の城と伝えられる。

*1:永禄二年八月、毛利元就・隆元父子が石見一宮物部神社に宅野村70貫文を寄進している(「物部神社文書」)。

*2:藤間家が宅野に土地を所有したことが確実にわかるのは、寛文九年(1699)に実施された検地帳の改めの際のこととされる。

*3:明和二年(1765)に成立した筑前博多の地誌『石城志』にも、石見の波底寺を再興することになり、古い棟札を確認したところ、「筑前博多住神屋寿貞建立」という文字が記されていた、というエピソードが記されている。