戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

杵築 きづき

 杵築大社の外縁に形成された門前町。当時は日本海にも注いでいた斐伊川河口の「湊」とも一体となって、出雲平野・日本海水運の要衝を占めた。

鎌倉期の杵築社門前

 杵築社門前の市場形成が確認できるのは13世紀中ごろ。「絹本著色出雲大社并神郷図」*1に、大社門前の寺院(養命寺)前に二列の屋敷が建ち並んでいる様子が描かれている。

 二列の家が建ち並ぶ構図は、それが市場であったことを示しているとみられる。この市場が、後年の康永二年(1343)の史料*2にみえる、「院内市場」だったとみられる。また日本海には7艘の帆掛舟が描かれており、杵築浦にも2艘が描かれている。

戦国期の杵築

 戦国期、杵築市場の中心は「院内市場」から東に移動した。新しく大社門前市として、現在の坪内、市場地域が現れた。

 天文二年(1533)ごろの作製と推定される「中村市町周辺絵図」(『佐草家文書』)には、「中村新町」や「新町道」などがみえる。新町が形成され、市街地化が進行しつつある状況がうかがえる。

杵築の住人たち

 戦国期の杵築では市場だけでなく、商工業活動が活発に行われていた。16世紀における『千家家文書』等の史料からは、「かちや(鍛冶屋)」「かみゆひ(髪結い)」「くしや」「まめや」「米屋」「風呂屋」「船道」「大鋸(引)」「番匠」「榑ヘキ」などの商人や職人の名称が検出される。

 「番匠」は大工、「大鋸引」は木挽*3を意味する。「榑ヘキ」は榑引、すなわち榑(屋根葺き用の薄板)を作る職人と推測される。

杵築の発展と有力商人

 杵築は北方の鷺銅山の銅や、斐伊川を下って運ばれる奥出雲の鉄などの積出港でもあったという。また同じく、銅や鉄の積出港として急速に台頭した宇竜への出入口でもあった。

 16世紀後半、銀を求めて多数の船が出雲・石見沿岸部に来航するようになる。西日本海水運の転換期の中で、鉄や銅といった需要の高い鉱物資源を集積できる杵築は大きな発展を遂げる。

 この時期の杵築には「大和屋」、「丹波屋」、「山城屋」、後には「佐渡屋」の屋号を持つ商人があらわれている。それぞれ屋号の示す地域と関連する取引を行ったと推測され、杵築が広域流通の拠点を担う都市となっていたことを示している。

 また同じ頃、平田の平田屋氏や塩冶の板倉氏といった、それまで連関的な関係にあった出雲平野の市町の有力商人が杵築に本拠を移している。杵築が出雲平野での地位を相対的に上昇させ、機能的中心を担うようになった結果と思われる。

御師の活動と御供宿

 戦国期、杵築社の御師*4の活動は広範囲に及んだ。例えば杵築を代表する有力商人でもあった坪内氏は、千家国造家に属する御師としても活動。石見温泉津の温泉英永、備後田総の田総元里、福永五郎左衛門、三吉の三吉致高ら隣国の領主層とも誼を通じて、杵築社への献納を依頼したり祈祷を引き受けたりしている。その目的の一つに、参詣人の獲得があった。

 杵築には宿泊施設が設けてあり、参詣人たちは、それぞれ定められた宿で泊まることになっていた。この宿は、「御供宿」と呼ばれ、「御供宿」を提供する権利のことは「室」と呼ばれた。坪内氏も室所有者の一人だった。

御供宿と室の成立

 室の数は天文六年(1537)に尼子経久によって16と定められた。御供宿や室の成立はこれより遡る。永享七年(1435)四月の「平岡国経譲状」に、「むろはん(室番カ)」や「御供番」が確認でき、文安元年(1444)八月と推定される「沙弥賢中譲状」に「むろ(室カ)」の語がみえる。

杵築社へ参詣する人々

 永禄八年(1565)二月十日付の「町原彦左衛門尉・上杉佐渡連署書状」には、「五郎」という領主が富田籠城中に坪内重吉から「御懇」を受けた謝礼として「太東本郷之内六日市・田中村」*5領民の杵築参詣宿を坪内氏の経営する宿にすることを約束したことが記されている。

 坪内氏ら御師が、領主層と交渉して領民を参詣人として獲得していたことがうかがえる。また当時の参詣が領内の村ごとや知行地ごとに、しかも集団で行われたらしいことも分かる。

 参詣人は室所有者に宿泊料を支払うとともに、杵築社に対しては「御供米」や「御供銭」を納めることになっていた。このことは杵築社の経済に、多少なりとも貢献したと推定されている。

関連人物

参考文献

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奉納山から眺めた杵築の町。

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稲佐の浜。かつては日本海を航行した船舶が発着した、かもしれない浜辺。

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杵築(出雲)大社の社殿。

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出雲大社に隣接する北島国造邸土居と能野川。寛文の造営の際に整備された。江戸初期の河川風景を今に伝えているという。

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北島国造家四脚門。国造家が古く出雲大社本殿の真裏にあった時代にその前面にあったもの。寛文七年(1667)大社造営に際して母屋等と共に現在地に移築された。一部に室町期の様相も見られるという。

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養命寺。

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養命寺の参道。

*1:宝治二年(1249)の杵築大社造営の際に描かれたとみられる。杵築大社の現存最古の絵図。国の重要文化財

*2:千家孝宗北島貞孝連署和与状」(『千家家文書』)。

*3:木材を「大鋸」(おが)を使用して挽き切る職人。製材職人。

*4:社寺へ参詣者を案内し、参拝、宿泊等の世話をする者。

*5:現在の雲南市大東町