戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

神屋 寿禎 かみや じゅてい

 筑前博多の商人。石見銀山の開発と石見銀の貿易に関わったといわれる。妻は妙栄。子に三正宗統(聖福寺龍華庵の庵主)、小四郎、宗浙、宗白らがいる。戦国末期の博多の豪商・神屋宗湛は寿禎の曽孫にあたる。

石見銀山の開発

 大永七年(1527)三月、石見国田儀浦の三島清右衛門により石見銀山の開発がは始まる*1。清右衛門は吉田与三右衛門、同藤左衛門、於紅孫右衛門の3名の大工を同行して銀を入手したとされる(「石州仁万郡佐摩村銀山之初」)。

 「おべに孫右衛門縁起」および「石州仁万郡佐摩村銀山之初」では、「銀山正主」(銀山の所有者か)を三島清右衛門と神屋寿禎としている。寿禎は小田藤右衛門*2を代官として石見銀山に派遣。三島清右衛門と寿禎代官小田藤右衛門は、銀山に米・銭を入れ、銀を買い入れたという。

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 寿禎は三島清右衛門とならんで「正主」とされていることから、石見銀山の開発にも寿禎が大きく関与していた可能性が高い。天文二年(1533)八月には、九州博多から「慶寿と申す禅門」がやって来て、初めて銀吹きが行われたとされる*3(「おべに孫右衛門縁起」)。

 なお寿禎の故郷博多の地誌である『石城志』(明和二年成立)巻七には、神屋寿禎が妻子を捨て、中国明朝に数十年留まって「銀の吹よう」(精錬技術)と「錫・鉛より銀を取事」を習得して帰国し、石見銀山をはじめ諸国に金山(銀山)を起こしたと記している。ここでは寿禎本人が中国で精錬技術を習得して、日本各地の銀山を開発した事になっている。

石見国での足跡

 江戸期の類書である「銀山記」によれば、石見銀山の開発から天文二年(1533)まで、銀は全て博多に送られていたが、その際の積出港は「枯柳」(古龍)と「鞆ヶ岩屋」(鞆ヶ浦)だったという。寿禎はこの港に弁財天を勧請。その験があって、家数が千軒にも達する福地となったとしている。

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 また上記の『石城志』には、同地誌が成立する江戸中期、石見銀山の者がやって来て、神屋寿禎の子孫の有無を尋ねた事が記されている。石見の波底寺*4を再興することになり、古い棟札を確認したところ、「筑前博多住神屋寿貞建立」という文字が記されていたのだという。

 『商人亀鑑 博多三傑伝』には、石見国宅の浦の真言宗寺院波底寺に伝わる棟札の銘文が下記のように記されている。

天文五年丙申五月十五日上棟、筑前国石城府袖之湊博多津之住人神屋寿貞建立

 寿禎による波底寺建立が、天文五年(1536)五月であったことが分かる。寿禎が石見銀山および石見国と密接な関係を有していたことがうかがえる。

遣明使節との関わり

 博多の神屋一族は、天文八年(1539)度と天文十六年(1547)度の遣明使節となった策彦周良の日記「策彦入明記」に多く登場する。「策彦入明記」は「初渡集」(天文八年度遣明船時)と「再渡集」(天文十六年度)に分かれるが、神屋寿禎は「初渡集」のみに記事がみえる。

 天文七年(1538)十二月二十八日、中国明朝への出航のため博多で風待ちをしていた策彦周良に、「統上司公老親寿禎」が山芋や牛蒡(ごぼう)、酒を贈っている。

 「統上司公」とは博多滞在中の策彦の宿所であった聖福寺龍華庵の庵主を意味し、「老親」とあるように、当時は寿禎の子の三正がつとめていた。三正は天文八年度および天文十六年度の両度、入明したことが「策彦入明記」からわかる。神屋寿貞が、子の龍華庵主・三正を通じて遣明使節と関係を築いていたことがうかがえる。

 天文八年(1539)二月四日、「春叟元仲禅人」の三十三回忌が行われ、神屋寿禎が設斎。遣明正使・湖心碩鼎が焼香し、偈を記し、副使・策彦周良も参加した。春叟元仲は三正の母の父であり、寿禎にとっては妻の父であった*5。寿禎は義父の三十三回忌を湖心碩鼎と策彦周良という両遣明使を招いて行ったとみられる。

 天文八年三月五日、湖心碩鼎と策彦周良ら遣明使節は博多を出帆し、中国明朝に向かった。一号船総船頭に任じられた神屋主計(運安)ら多くの神屋一族が使節に加わって入明している。一行の中には上記のように寿禎の子の三正もおり、また三正の「俗弟」小四郎も兄ととに遣明船に乗っていたらしい(「初渡集」天文八年三月九日条)。

 天文十年(1541)七月三日、帰朝した遣明船が肥前国斑鳩に到着。寿禎はいち早く博多から船に乗って遣明使節のもとを訪れ、策彦周良に「博多酒」を贈っている。

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 同月十一日、遣明船が長門国赤間関に帰着。十三日に寿禎から策彦周良に大斗合一ケと茄子一盆が贈られている。また二十一日、策彦周良は博多衆に贈り物をしており、寿禎には天目黒台一ケを贈っている。

神屋寿禎の系譜

 寿禎の系譜は諸説がある。寿禎を神屋主計(運安)の弟、すなわち主計の実父である神屋永富の子とする系図があるが(『商人亀鑑 博多三傑伝』)、永富の兄弟とする見方もある。少なくとも天文七年(1538)時点で、寿禎は「老親」と記述される程度には高齢であった。

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 天文十五年(1546)十月十二日、神屋寿禎は死去した。天文二十一年(1552)十月二十二日、彼の七回忌が行われている(「頣賢録」)。

 この七回忌は三正が湖心碩鼎に白銀百両を提供して法語を依頼し、宗浙(寿禎の子)によって営まれた。また寿禎の近親者として「后室(未亡人)妙栄」の名が見える。先述の三正の母と同一人物とみられている。

 また仏事に際しては、妙栄が「本宅」を荘厳し、宗浙が「別業之新」を飾って「十々珍味」を備えたことが湖心碩鼎の語録「頣賢録」にみえる。神屋寿禎家には「本宅」と「別業」(別荘)の持ち家があったことが分かり、寿禎家の富貴を知ることができる。

 永禄五年(1562)の寿禎の十七回忌についても「頣賢録」にみえる。ここでは「其息宗浙・宗白」とあり、寿禎に宗白という子息がいたことが分かる。

島井宗室の記憶

 戦国末期から江戸初期の博多の豪商として知られる神屋宗湛は、宗浙の孫、つまり寿禎の曽孫にあたる。

 宗湛と同時代の博多の豪商・島井宗室は、晩年の慶長十五年(1610)、養嗣子の徳左衛門に対して商人としての心得を説いた17条にわたる遺訓(遺言状)を残している。この文書の中に神屋寿禎に関するエピソードが二点ある。

 その一つが第九条で、「寿貞ハ生中薪・焼物われと聖福寺門之前にて被買候」とあり、寿禎が生前、自ら薪や焚き物を聖福寺門前で買い、その価格の高下をよく把握していたことが述べられている。

 また第十二条には「又米のたかき時ハ、ぞうすい(雑炊)をくわせ候へ。寿貞一生ぞうすいくわれたると申候」とある。寿禎が日常的に雑炊を食して倹約していたことが記されている。

 これらは寿禎の倹約家としての面を強調しており、幼少時に宗室が見聞した神屋寿禎の生活ぶりを彷彿とさせる記述となっている。

参考文献

石見銀山の積出港・鞆ヶ浦の沖に浮かぶ鵜島。厳島神社が鎮座している。ご神体の弁財天は、神屋寿禎が勧請したものと伝えられる。

*1:「おべに孫右衛門縁起」では大永六年(1526)三月とされる。

*2:「おべに孫右衛門縁起」では小田藤左衛門としている。

*3:「おべに孫右衛門縁起」および「石州仁万郡佐摩村銀山之初」よりも後に成立した「銀山旧記」では、天文二年に寿禎が博多から宗丹と桂寿を連れてきて銀吹をしたとする。

*4:波底寺は、石見銀山に近い島根県邇摩郡宅野の波啼寺という真言宗寺院に比定する説がある。

*5:日記には春叟元仲は「統上司公北堂之父」とある。つまり三正の「北堂」(=母)の父となる。