島根半島西端部に位置する港町。中世、杵築社領十二郷七浦の一つ。戦国期、雲州鉄の積出港として各地からの船が来航した。なお奈良期に編纂された『出雲国風土記』に「宇礼保の浦、広さ七十八歩なり。船廿ばかり泊つべし」とみえる。古代から良港として知られていたことが分かる。
日御碕社と杵築社
宇竜は平安期から鎌倉期までは、日御碕社領だった。「日御碕社可日置重光言上状」によると、応徳元年(1084)十二月、杵築大社方が「宇料浦」の田壱町等に刈田狼藉をしたとの訴えが出されている(『日御碕神社文書』)。鎌倉期も日御碕社の神官・日置氏によって継承されており、鎌倉幕府も元応元年(1319)に安堵状を出している(『日御碕神社文書』)。
ただ南北朝期になると、杵築社の勢力が宇竜にも及ぶ。永和元年(1375)四月の史料に、「当社(杵築社)御領宇料津」とみえる。戦国期には杵築社家佐草氏の支配するところとなっている*1。
日本海の要港・宇竜
永禄六年(1563)五月二十三日尼子家奉行人連署副状に「宇竜 浦之儀」として「近年北国船因州但州船着津に就き」とある。当時、宇竜 には北国船(若狭方面からの船か)や因幡、但馬の船が来航していたことが分かる。また宇竜には「唐船」が入港することもあり、その際は宇竜 に置かれた尼子氏の奉行衆を通して必要なものを買い上げるとしている。
尼子氏は同時に、日御碕社による宇竜の支配と同地における舟役、勘過料の徴収を寄進という形で保障していた。 尼子氏の日御碕社への崇敬が篤かったことだけでなく、杵築大社勢力への対抗もあったといわれる。
尼子氏の経済政策
永禄十二年(1569)十月二十一日、尼子氏は「宇竜鉄駄別」(鉄への関税)を御崎社へと寄進し、徴収地を宇竜へと限定している。これは雲州鉄の流通の掌握を図ったものとみられるが、実効性は定かではない。
ただ、宇竜へは斐伊川を下され、杵築や園湊に陸揚げされた鉄が以前から運ばれていたとみられる。「北国船因州但州船」や「唐船」が集まる宇竜の活況が鉄の積出しにあったことが推定される。
参考文献
- 井上寛治 「中世西日本海地域の水運と交流」 (『海と列島文化2 日本海と出雲世界』) 小学館 1991
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会、竹内理三 編 『角川日本地名大辞典 32 島根県』 角川書店 1979
*1:延徳二年(1490)二月の「佐草泰信譲状」に「宇竜みそそへ石橋之本」とみえる(『佐草家文書』)。