出雲中海南岸の港町。現在の島根県安来市安来町。出雲国の東端、伯耆への玄関口に位置し、中海を通じて日本海水運にも繋がることから、中世、水陸交通の要衝として栄えた。
隠岐との繋がり
「安来津」の史料上の初見である『増鏡』の記事によれば、隠岐に配流される後醍醐天皇が播磨・美作から北上して米子に出た後、安来津から船に乗って隠岐に渡っている。これは当時の山陽と山陰とを結ぶ主要なルートとみられ、安来が水陸の交通の要衝にあったことが分かる。
『増鏡』の記事にもあるように、安来と隠岐とは密接な関係にあった。文明七年(1475)三月、出雲守護・京極政高は尼子氏に対し、安来を本拠とする松田氏被官の「安来島前舟」「隠岐舟」「賀茂舟」「重栖舟」が去年から免除を停止したにもかかわらず美保関役を払っていないと伝えている。
「安来島前舟」などの名から安来、隠岐島前が一体のものと認識され、日常的に舟が運航していたこと、安来が隠岐-出雲間の物資集散地であったことがうかがえる。
朝鮮人集落
『李朝実録』世宗二年(1420)閏正月十五日条に、朝鮮国王が室町将軍に宛てた国書の内容が記されている。朝鮮側は、漂流して「出雲国安木」(安来)に身を寄せる自国民が70余戸あるとの情報を得ており、また海賊に連行されて各地に売られた者も多いとしている。
これに対し、室町将軍側は朝鮮国王あての国書において、 出雲国の朝鮮人は皆死亡しており、その子孫に帰国希望者を募ったが、誰もその地を離れようとしなかった、と回答している。
朝鮮側の「出雲国安木」「七十余戸」という情報は、かなり具体的であり、何らかの根拠があった可能性が高い。安来と朝鮮半島との間で何らかの結びつきがあったことがうかがえる。
富田の外港
戦国期、尼子氏が戦国大名として成長すると、安来は同氏の本拠である富田の外港としても機能するようになる。『陰徳太平記』によれば、永禄年間の富田城攻防戦中、若狭の商人や「北国の商人」が安来に米穀を持ち込み、それを尼子方が密かに買い取っていたという。
実際に富田城の城下町からは、日本海を経由して運ばれたと思われる様々な物品が出土している。平時においても若狭や北国の商人が安来に来航し、物資が陸揚げされて富田に運ばれたことが推定される。
出雲の物資積出港
元亀元年(1570)四月九日、毛利元就は温泉津に在った重臣の井上就重や児玉就久・武安就安・林就長らに対し、安来から温泉津への兵糧運搬と「積舟」(運搬船)の手配を指令するよう指示。同月二十五日、元就はさらに兵糧1500俵を銀山に搬入するため、温泉津の町に対して輸送用の馬を用意するよう指令を出すように児玉、武安らに命じている(『萩藩閥閲録』巻101)。
この前年の永禄十二年(1569)、隠岐から尼子勝久、山中幸盛ら尼子再興軍が出雲に攻め込んでおり、これに対応する為に軍資金の銀子を調達しようとしたと思われる。
戦国期の安来町
元亀元年(1570)*1十二月、尼子氏旧臣の秋上宗信が杵築大社(出雲大社)の御師であった坪内氏に宛てた書状に安来に「町役」が課されていたことがみえる。書状の中で宗信は、以前から「安来町役之儀」の徴収が自身に認められていたと主張しており、坪内氏に対して「早々可致其調候」として役料の納入を催促している(「坪内家文書」)。
宗信に安来での特権を認めていたのは出雲尼子氏であったとみられる。このことから「安来町」は、少なくとも尼子氏が滅びる永禄九年(1566)以前から存在していたことがうかがえる。またそこでは杵築の商人でもある坪内氏が活動していたことも分かる。
17世紀初頭の安来の地名を知ることができる史料として、慶長二十年(1615)「能義郡之内安来濱御検地帳」(以下、「安来浜検地帳」)がある。なお「安来浜」については、永禄四年(1561)十一月に尼子家臣湯原氏一族の信綱が「となりこれう人」に譲り渡した権益として「やすきのはまにやしき三間無役」が見えるので、戦国期には存在した地域呼称と考えられている。
「安来浜検地帳」に記載される畠の所在地名には、「かまだに(釜谷)」「御崎谷」「はまだ」「町ノ前」「二日市」「後小路」「馬場尻」「小城ノ迫」「八幡原」などがある。このほか、「はまだしほ入」に「七日市ノ喜三郎」、「御崎谷寺分」に「七日市ノ安五郎」、「寺分」に「七日市ノ惣次郎」といった名がみられるので、「七日市」という市場地名が存在したことも分かる。
このうち「二日市」「七日市」は中世の安来における物流拠点の中心であった可能性がある。また「後小路」は社日山北麗の町筋であり、乗相院や松源寺、祇園社(安来神社)など多数の寺社が集中していることから、起源の古いものである可能性が高いという。
関連人物
参考文献
- 井上寛司 「中世山陰における水運と都市の発達ー戦国期の出雲・石見地域を中心としてー」(有光有学・編 『戦国期権力と地域社会』 吉川弘文館 1987)
- 佐伯徳哉「銀山開発から盛期における鞆ヶ浦、温泉津・沖泊」 (島根県教育委員会、大田市教育委員会、温泉津町教育委員会、仁摩町教育委員会・編 『石見銀山街道 鞆ヶ浦・沖泊集落調査報告』 2005)
- 長谷川博史 「中世港町安来の復元的考察」(島根社会科懇話会『社会科研究』第31号 2010)
*1:永禄十二年(1569)の可能性もある。