戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

馬潟 まかた

 中海と宍道湖をつなぐ朝酌川の南岸に位置する港町。中世、「水海」(中海・宍道湖)水運の要港として栄えた。

八幡荘の津

 『出雲風土記』によれば馬潟には「朝酌渡」があったとされ、古代以来の海陸交通の要衝にあった。中世、馬潟周辺は石清水八幡宮とその別宮・平浜八幡宮*1の荘園(八幡荘)とされた。

 八幡荘の港湾として観応元年(1350)八月の「北垣三郎五郎光政軍忠状」に「八幡津」がみえる。また天文十二年(1543)五月、「ウマカタノ津」で大内晴持(大内義隆の養子)が戦死している(『八代日記』)。

富田城のもう一つの外港

 戦国期、馬潟は尼子氏の本拠地・富田城の、外港の一つだった可能性がある。「森脇覚書」によれば、永禄六年(1563)、毛利氏が攻撃中の白鹿城(松江市法吉町)を救援するため尼子氏の援軍が派遣された。その際の経路は富田城、馬形、羽倉城(和久羅山)、「からから橋」(松江市西川津町)、白鹿城であったという。富田城から山越えで馬潟に至るルートがあったことが推定される。

馬潟の町場

 天文十二年(1543)七月二十三日の「多胡久盛所領書立」には「塩役ノ事、八幡市場モ同前也」とあり、 八幡荘の中に市場があったことが分かる。また『陰徳太平記』には天文十二年(1543)五月八日、尼子氏との戦に破れて敗走中の陶隆房が「馬方町」に打ち入り、富饒な商人らの庫蔵米を奪って敗軍勢に与えたという記事がある。

 これらのことから、当時の馬潟には市場を含む町場が形成され、富裕な商人が居住し、水運や陸運で運ばれた塩や米などの物資の集散を担っていたことがうかがえる。

馬潟で徴収される「関」

 天正三年(1575)六月二十二日、京都から薩摩への帰路にあった島津家久一行は、米子を出航して「馬かた」で「関」を取られた (「中書家久公御上京日記」)。彼らはさらに進んで「しらかた(白潟)」という町に着船して昼食をとった後、宍道湖を西進して西岸の平田に上陸した。この「関」とは関料(通行税)であったとみられる。

 享禄三年(1530)五月の「尼子経久袖判多胡久愛預ヶ状写」によれば、「平浜別宮(平浜八幡宮)」領の中には「馬形」で徴収される「上分銭」があり、平浜八幡宮に対して年6貫文が納められることになっていた。

 また永禄七年(1564)八月の「毛利元就袖判平浜別宮領書立」では「平浜別宮」領八幡荘300貫の中に「馬形 上分共ニ」とある。「上分」とは神への捧げ物という意味で、海上を通過して神仏を拝む時の捧げ物として船舶から徴収され、関料(通行税)の起源といわれる。

参考文献

  • 井上寛司 「中世山陰における水運と都市の発達ー戦国期の出雲・石見地域を中心としてー」(有光有学・編 『戦国期権力と地域社会』 1987 吉川弘文館
  • 長谷川博史『松江市ふるさと文庫15 中世水運と松江 城下町形成の前史を探る』 2013 松江市教育委員会

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中海と宍道湖を結ぶ大橋川。馬潟は大橋川の中海側の端に位置し、交通の要衝にあった。

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平浜八幡宮の社殿。

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平浜八幡宮別当だった迎接寺。

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布貴神社。大橋川南岸の県道沿いに鎮座している。

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布貴神社の隣に立つ「二十躰塚御鬼神」の石碑。側面に「草の露 尼子をしのぶ 古戦場」と刻まれている。

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大橋川に浮かぶ塩楯島。少彦名命を祀る手間天神が鎮座している。

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手間地区の歩道橋から馬潟の町と中海を望む。

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馬潟南方の出雲国分寺跡。

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天平古道。奈良期、出雲国分寺と出雲国衙を結んでいたといわれる。

*1:創建年代は不明だが、天永二年(1111)の記録にみえる。中世は「平浜別宮」とも呼ばれた。