戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

坪内 孫二郎 つぼのうち まごじろう

 杵築大社の御師杵築の商人。石田孫次郎とも呼ばれた。坪内重吉の子。兄弟に彦兵衛尉、二郎がいる。

 杵築周辺の商人を統括

 天文二十四年(1555)三月、坪内孫二郎は主家の国造千家慶勝から「杵築相物親方職」に任じられ、弘治三年(1557)二月に、尼子晴久がこれを安堵した。その職掌は、鳥居田上下川の範囲における輸送業者や商人ら*1を統括し、「有様役」を徴収・納付することだった。

 永禄元年(1558)には、父重吉も同様の職掌である「杵築祐源大物小物親方職」に任じられている。

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石見国への物資輸送

 永禄四年(1561)十月、孫二郎は雲石国境の島津屋関所を守備していた牛尾久清から。馬3匹分の通行を許可されている。毛利氏が勢力を伸長した石見国への通行制限を実施していたとみられる。

 この時の通行許可証と思しき文書も残されている。これによれば、米・酒・塩・噌・鉄は「御法度」として石見国へは移出禁止であり、そのほかの肴・絹布以下の品目については輸送が許されていた。

 このことから、孫二郎ら坪内氏の商業活動が、石見国にもおよんでいたことがうかがえる。平時であれば肴・絹布だけでなく米・酒・塩・噌・鉄も、石見国に運んでいたと思われる。

富田月山城への籠城

 永禄五年(1562)七月、毛利氏の軍勢が出雲国内に進出し、尼子氏の居城・富田月山城に迫っていた。七月二十七日、重吉・孫二郎・二郎の父子三名は杵築上官長谷氏に宛て、証状を提出。国造千家慶勝の恩に報いる為、富田で籠城し、帰還後も奉公する旨を誓っている。

備後田総氏との関わり

 富田月山城での籠城戦が行われている時期、孫二郎は備後北部の国人・田総元里と音信していた。年未詳の四月、元里は孫二郎に宛てて無沙汰*2を詫び、散銭20疋を納めて祈念を依頼している。併せて碁石の入手についても依頼しており、孫二郎の商業活動の一端をうかがうことができる。

尼子氏滅亡 

 永禄九年(1566)十一月、尼子義久は降伏。富田月山城は開城した。孫二郎の「杵築相物親方職」は、既に永禄七年(1564)九月に、毛利元就によって坪内彦兵衛尉に安堵されていた。彦兵衛尉は孫二郎の兄弟だが、毛利方についていたとみられる。

 一方で永禄十年(1567)十月、坪内四郎左衛門尉が坪内重吉に対して、備後田総氏の御供宿については競合しないことを約束している。田総氏と孫二郎の師檀関係は継続しており、杵築の参詣宿の権益は、父重吉がなお保持していたことがうかがえる。

尼子氏再興

 そんな中、永禄十二年(1569)六月に尼子勝久らが尼子再興を目指して出雲に侵入。八月、重吉と孫二郎の父子は尼子勝久のもとに参陣した。十一月、孫二郎は山中幸盛ら尼子氏奉行人によって「杵築商人相物小物諸役」を申し付けられている。「晴久様御判形之旨」とあるので、弘治三年に尼子晴久が安堵した「杵築相物親方職」への再任とみられる。

 十二月、杵築の「室」(参詣宿の経営権)の定数について、異論が出されていた件について、尼子勝久は新設を認めないことを決定。これを孫二郎に伝えている。孫二郎が「杵築相物親方職」として、商人らを統括する立場になっていた為と考えられる。

参考文献

  • 岸田裕之 「大名領国下における杵築相物親方坪内氏の性格と動向」(『大名領国の経済構造』) 岩波書店 2001

月山富田城跡の馬乗馬場

*1:原文は「牛馬幷船道商売仕候者」。

*2:毛利氏主力が富田方面で作戦中の為、自身は留守番となっており、動くことが出来ないことを理由として挙げている。