戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

塩冶 えんや

 出雲山間部から出雲平野を貫流する斐伊川神戸川の両河川が通過する要地・神門郡塩冶郷の市町。中世、出雲西部の有力国人・塩冶氏のもとで河川水運・流通の拠点として栄えたとみられる。

市町の存在

 慶長十四年(1609)頃、「塩冶・中村両市目代」が板倉氏に安堵されている(「工藤家文書」)。中世に遡って、塩冶に町場が形成されていた可能性が指摘されている。

河川水運との関係性

 斐伊川神戸川は出雲山間地域の大部分を覆い、中世、この両河川はともに日本海に注いでいた。塩冶はこの河川水運を介して鉄産地である出雲山間地域と日本海を結ぶ流通拠点であったと推測されている。塩冶郷には初見が弘安元年(1278)に遡ることができる「大津村」があり、斐伊川の「津」の存在を窺わせる。

鉄の流通経路との関連

 神戸川筋は、古代以来杵築大社の参詣道であるとも言われている。杵築宇竜に運ばれる奥出雲の鉄が塩冶を通過し、あるいはここで取引されたともみられる。さらに塩冶氏庶流・上郷氏は、斐伊川最上流の鉄の産地・横田荘と関わりを持っていた。同じく広田氏は、中流域の鉄の流通拠点・木次が本拠であった。

出雲国外との結びつき

 永禄五年(1562)六月、石見国衆・佐波興連は被官・石橋新左衛門尉を「雲州商人司」とともに「塩冶・朝山司」に任じている。石橋氏が以前から塩冶郷、朝山郷で、何らかの経済活動を行っていたことがうかがえる。

 また戦国期、塩冶氏は備後国衆・山内氏と縁戚関係にあった。また享禄三年(1530)に「塩冶衆」が高橋氏(安芸と石見にまたがる国人領主)の救援に動くなど、塩冶と国外諸地域との結びつきを窺わせる事例も多い。

関連人物

参考文献

  • 長谷川博史 「戦国期大名権力の形成-尼子氏による出雲国奉公衆塩冶氏の掌握と討滅-」(『戦国大名尼子氏の研究』) 吉川弘文館 2000