戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

坪内 重吉 つぼのうち しげよし

 戦国期、杵築大社の参詣宿を経営していた同社の御師。次郎右衛門尉。石田二郎右衛門尉とも呼ばれた。子に彦兵衛尉孫二郎、二郎がいる。杵築の領主・国造千家氏や戦国大名・尼子氏のもとで、「商人伯(司)」として杵築周辺の商人を統轄した。

 杵築周辺の商人を統括

 永禄元年(1558)、坪内重吉は国造千家慶勝から「杵築祐源大物小物親方職」に任じられた。その職掌は、鳥居田上下川の範囲における輸送業者や商人ら*1を統括し、「有様役」を徴収・納付することだった。

 なお先年、重吉の子・孫二郎が「杵築相物親方職」に任じられているが、文書に示された職掌は全く同じであった。一方で、重吉のそれは「祐源」が付け加えられている。

 「祐源職」*2には下代がおかれた。尼子氏奉行人・目賀田幸宣*3は、同じく尼子家臣・川福久盛に対し、「祐源下代」を申し付けている。その際、坪内氏と久盛が昵懇な関係であることを理由に挙げている。

富田月山城への籠城

 永禄五年(1562)七月、毛利元就が子の毛利隆元吉川元春小早川隆景らとともに、軍勢を率いて安芸国から石見国に進出。同二十八日には出雲赤穴に到着した。尼子氏の居城・富田月山城への侵攻は、目前に迫っていた。

 この情勢下で重吉は、子の孫二郎と二郎とともに、富田月山城での籠城戦に加わることを決断。七月二十三日、領主である千家慶勝は、重吉ら父子三人を見捨てないことを約束し、合戦も尼子方の勝利となる見込みなので安心するよう伝えている。

籠城の見返り

 富田月山城に籠城中の永禄六年(1563)六月、尼子義久は重吉に対し、「今度籠城忠儀」として、杵築内の田地2反、屋敷2ヵ所、銀山内の屋敷5ヵ所*4、杵築荒木内の買地を給与している。坪内氏は石見方面への物資輸送にも携わっており、その大きな搬入先が石見銀山であったといわれる。尼子氏の石見回復は、坪内氏にとっても石見の販路回復につながることだった。

 さらに永禄七年(1564)九月、尼子義久は重吉の籠城を賞して、3つの扶持を約束した。一つは杵築の「室」(参詣宿の経営権)*5の内、「高橋室」を給与すること。二つ目は「商人伯」*6は従来通り、重吉に安堵すること。おまけに杵築の町役も免除すること。三つ目は、杵築油伯は入役ともに重吉の扱いにすること。併せて毎年100駄分、諸関は通行料免除とすること、だった。重吉は尼子氏に味方することで、大きな特権を得る可能性があった。

杵築大社の御師と参詣宿の経営

 永禄七年(1564)、尼子義久の立願の為に杵築大社神前において法華経十万部の読経が行われることになった。二月、この事業を執行する僧・聖香が重吉に宿の提供等を求めている。

 永禄八年(1565)五月、尼子家臣・牛尾久清は重吉の籠城を賞し、杵築大社に参宮する際は、自領の参詣者も含めて、末代まで重吉の宿を使用することを契約している。

 石見国温泉津の温泉英永は、重吉と同じく富田城に籠城していた。永禄八年五月、息災延命と武運長久を祈って杵築大社に寄進を行い、同年六月には連歌千句を献納して願書を認めている。この時の寄進状と願書写が「坪内家文書」中にあることから、温泉英永の祈願は、重吉によって行われたと推定される。

 重吉の祈念に感謝した英永は、帰国できた際には、石見温泉津にある仙崎屋又衛門の屋敷一か所を永代給与することなどを約束している。

尼子氏の滅亡と勝久の蜂起 

 永禄九年(1566)十一月、尼子義久は降伏。富田月山城は開城した。出雲では毛利氏の支配が進み、孫二郎の「杵築相物親方職」と重吉の「祐源職」は、重吉の子・坪内彦兵衛尉に移った。

 一方で永禄十年(1567)十月、坪内四郎左衛門尉が重吉に対して、備後田総氏*7の御供宿については競合しないことを約束している。杵築の参詣宿の権益は、重吉がなお保持していたことがうかがえる。

 そんな中、永禄十二年(1569)六月に尼子勝久らが尼子再興を目指して出雲に侵入。八月、重吉と孫二郎の父子は尼子勝久のもとに参陣した。これにより坪内孫二郎は、山中幸盛や立原久綱、川福久盛ら尼子氏奉行人によって、「杵築商人相物小物諸役」を申し付けられている。「杵築相物親方職」への再任とみられる。

 なお時期は不明だが、毛利方に属す坪内彦兵衛尉は、父重吉について吉川氏に働きかけを行っていたらしい。杵築の山城屋五兵衛尉が重吉に対し、彦兵衛尉が吉川氏奉行人・伊賀田春法と山県就慶に依頼していた「一通」がやっと到来したので、請け取るように伝えている。

参考文献

  • 岸田裕之 「大名領国下における杵築相物親方坪内氏の性格と動向」(『大名領国の経済構造』) 岩波書店 2001

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坪内重吉が籠城戦に加わった富田月山城の遠景。

*1:原文は「牛馬幷船道商売仕候者」。

*2:「祐源」の意味および役割は不明。杵築大社の御師にかかわる神官的なものかと推測されている。

*3:「祐源職」下代の前任は、幸宣の同名の目賀田三郎右衛門尉だった。

*4:「晴久様先御判之旨、不可有相違事」と注がある。天文二十一年(1552)十月、尼子晴久は備後江田氏の調略に功を挙げた坪内宗五郎に「石州銀山屋敷」5ヵ所を給与することを約束。十二月に尼子氏奉行人によって給与は実行された。

*5:杵築大社の参詣宿を経営する権利は「室」と呼ばれた。戦国期、「室」は16に限定されており、新設は認められていなかった。重吉は杵築大社の御師として、参詣宿を経営していた。

*6:上述の「杵築祐源大物小物親方職」と同じ役職と推定される。

*7:当主の田総元里は、坪内孫二郎と師檀関係にあった。