戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

賀戸 善左衛門尉 かど ぜんざえもんのじょう

 石見国邇摩郡波積郷の土豪。仮名は助五郎。もとは都治郷を本拠地とする国人・都治氏の被官であったが、後に毛利氏に仕えて「馳走」し、温泉津や温泉三方にも屋敷や給地を与えられた。

国人・都治氏の被官

 「嘉戸家文書」所収の由緒書によれば、嘉戸(賀戸)氏は和気清麻呂の子孫で、石見国那賀郡都治郷を本拠地とする国人・都治氏から分かれた一族であったという。もとは下都治に居住しており、都治地域の土豪の一員であったが、後に波積郷の「易久保白兎」に居住したという。

 永禄四年(1561)九月、賀戸氏とみられる「門(かど)亀若」という人物が、「久保公事名」を木屋因幡守に預けており、由緒書の「易久保白兎」との関連が考えられている。なお木屋因幡守に預けることについては、都治隆行が許可を与えており、「久保公事名」にかかる諸役の負担を門亀若に求めている。

 永禄五年(1562)以前の四月二十六日、都治隆行は、「金太郎」という人物(都治氏の関係者か)に同行して新庄(安芸国か)に赴いた賀戸助五郎を賞したうえで、「然奉公肝要候」と伝えている。前述の門亀若と同様に、都治隆行は賀戸助五郎の上位の存在としてふるまっており、賀戸氏が都治氏の被官であったことがうかがえる。

毛利氏との関係強化

 永禄五年(1562)、毛利氏が尼子方を駆逐して石見銀山を掌握。これ以降、賀戸氏は毛利氏との関係が密接となる。

 まず永禄五年八月二十六日、毛利元就は賀戸助五郎に「善左衛門尉」の官途を付与。同年十二月二日には善左衛門尉に波積郷内の散在地(合計6貫650文)を給付している。

 毛利元就の宛行状によると、善左衛門尉に給付されたのは波積郷の「かいの木」「原之前」「上之垣内」「土橋」「清水」「口之切」「中尾之前」「三俣」の田地であった。波積郷内にまとまった所領を持つのではなく、名を単位としつつ、郷内に散在した田地を知行していることが分かる。このことから、賀戸善左衛門尉は村落内部の上層に位置するような土豪・名主層であったと考えられている。

 永禄九年(1566)十二月十六日、善左衛門尉は毛利元就から温泉津町内の「乃木屋敷」一ヶ所の給付をうけた。加えて年未詳十二月二十日には、元就から「馳走」が賞され、温泉津の郊外にあたる温泉三方(大家庄温泉郷を構成する飯原・湯里・西田)で「拾五貫」の給地を宛行われている。

 上記の年未詳十二月二十日付毛利元就書状には「弥軍労肝要候」ともあり、善左衛門尉が何らかの形で毛利氏の軍事行動に関わっていたことがうかがえる。

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石田主税助春俊との関係

 賀戸善左衛門尉と同じく波積郷を本拠とした人物として、石田主税助春俊が知られる。石田春俊は毛利氏の海上勢力として活動しているが、春俊の関係史料には、発給日付が善左衛門尉の史料と合致する文書が複数存在する。

 たとえば前述の永禄五年十二月二日付毛利元就宛行状で善左衛門尉は波積郷内の給地を得ているが、石田春俊も同日付で波積郷内の田地を給付されている。また年未詳十二月二十日付毛利元就書状で、善左衛門尉は温泉三方に「拾五貫」の給地を付与されているが、石田春俊も同じ日付・内容の文書で温泉三方「拾五貫」を与えられている。

 なお慶長二年(1597)十二月十日付「地銭・諸役銀付立写」によると、温泉三方のうちの邇摩郡西田において屋敷を有していた人物の中に「石田市右衛門」と「かど弥右衛門」の名がみえる。それぞれ石田氏、賀戸氏との関連が指摘されている。

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 また石田春俊も賀戸善左衛門尉と同じく毛利氏から温泉津に屋敷を与えられていた。永禄十一年(1568)四月、毛利元就が派遣した温泉津奉行である武安就安と児玉就久を大檀那として、温泉津小浜地区に厳島神社が造営される。その造営棟札には、普請奉行として「石田主税助」とともに「加戸善左衛門」と「加戸神右衛門」の名前も記されている(『石見八重葎』*1)。このうち「加戸善左衛門」は賀戸善左衛門尉と同一人物とみられる。

 これらのことから、賀戸善左衛門尉は石田春俊と同格の存在であったことがうかがえる。慶長十六年(1611)四月、温泉津厳島神社は再建されるが、その造営時棟札にも石田・嘉戸(賀戸)両氏が本願主としてみえるという。

毛利元就死後

 元亀二年(1571)、賀戸善左衛門尉に給地・屋敷を与えてきた毛利元就が死去。元就の跡は孫の輝元が継ぎ、元亀三年(1572)正月二十九日に「石州波積郷・温泉郷」の給地20貫目を、元亀三年(1573)十二月十五日に「温泉津町之内乃木屋敷壱ヶ所」を、それぞれ善左衛門尉に安堵している。

 そして天正十五年(1587)三月九日、毛利輝元は「又右衛門尉」の官途を賀戸助五郎に付与。この賀戸助五郎は、善左衛門尉と仮名が同じであることから、善左衛門尉の嫡子にあたる人物かもしれない。

参考文献

温泉津町小浜地区の厳島神社

*1:文化十四年(1817)成立の石見国地理書