戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

肥中屋 孫二郎 ひじゅうや まごじろう

 石見国温泉津に居屋敷を持っていた商人。居屋敷は毛利元就から給与されており、元就死後に輝元によって安堵された。その名から、長門国肥中との関係性が指摘されている。

毛利輝元による居屋敷の安堵

 元亀二年(1571)六月十四日、毛利元就が没する。元就死後、温泉津における権益安堵は元亀三年(1572)初頭に確認できるが*1、居屋敷一般の安堵は、元亀四年(1573)の四月から五月にかけて一斉に行われたらしい。

 元亀四年(1573)四月十八日、肥中屋孫二郎も毛利輝元の袖判で「温泉津町之内」で「居屋敷壱ケ所」の安堵を受けた。書状には「任日頼証判之旨」ともあり、肥中屋の温泉津における屋敷が「日頼」(毛利元就)からの給与であったことがうかがえる。

 毛利氏による温泉津支配は永禄五年(1562)からはじまる。翌年の永禄六年(1563)十二月二十二日には、毛利元就が「温泉津内、其方居屋敷事、遣置之候」と、居屋敷を給与した事例が確認されている(『萩藩閥閲録遺漏』巻2の3)。したがって、元就没後の温泉津内の居屋敷安堵は、かつて発給された元就の判物に従い、輝元袖判による宛行状によって行われたことが分かる。

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温泉津と長門国

 なお肥中屋孫二郎は、その屋号から長門国肥中と商売上の関係をもっていたと考えられる。肥中は長門国北西部、響灘に臨む要港であり、毛利氏もここに海関を設置して直轄支配を行っている。

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 温泉津には同じく長門国仙崎(瀬戸崎)と関わるとみられる「せんさきや(仙崎屋)」の屋号を持つ屋敷もあった*2。温泉津が出雲方面だけでなく長門方面とも緊密な経済関係があったことがうかがえる。

参考文献

  • 本多博之 「毛利元就の温泉津支配と輝元の継承」(『日本歴史』第74号 2010)

温泉津の沖泊地区。温泉津の港湾部として銀の積み出しや物資の荷揚げが行われたという。

*1:元就死後、温泉津内の権益については毛利輝元が安堵した事例としては、元亀三年(1572)閏正月二十五日付で2つある。すなわち正恩寺という寺庵と、温泉津の商人の小問木工助に対して発給されたもので、元就側近だった井上就重と林就長の二人が中心となって作成され、輝元の袖判を得て行われている。

*2:永禄年間、出雲富田城に籠城していた温泉英永・彦二久長は、連署で杵築大社の御師・坪内重吉に書状を送って先勝祈念を依頼。帰国ができたら温泉津にある「せんさきや(仙崎屋)又衛門」の屋敷一ヶ所を永代給与することを約束している(「坪内家文書」)。