響灘に面する長門国北西部の深い入江を天然の良港とする港町。中世の日本海水運の要港の一つ。
大内氏の西の外港
大内氏の時代、肥中には同氏直属の関奉行が管轄する関が設けられた。文安五年(1448)九月、大内氏奉行人は肥中関奉行所に対し、対馬船が肥中関を通る時は「帆船御公事」を徴収する以外は船中を点検してはならないと命じている(「平山家文書」)。
肥中は大内氏が展開する中国・朝鮮との貿易においても重要な機能を果たしたといわれる。朝鮮の『海東諸国記』によれば 、応仁二年(1468)に「長門国賓重関」(肥中)の太守「野田藤原朝臣義長」と名乗る者が朝鮮に使者を派遣している。偽使である可能性もあるが、「賓重関」の名が知られていたことはうかがえる。
大内盛見の時代(14世紀後半から15世紀前半)には大内氏の本拠・山口から肥中に至る肥中街道が創設され、のちには船倉も設置された。『防長風土注進案』には「往昔此肥中ハ大内家の舟倉の在し地といへり」と記されている。肥中からは対外貿易の拠点である筑前博多への出船が多かったといわれ、山口の西の外港として機能したとみられる。
毛利氏の海関
大内氏滅亡後の永禄七年(1564)八月十三日、毛利氏は温科吉左衛門尉の持船3艘のうち1艘について、駄別、船前、帆数などの役を免除を決定。このことが山口奉行・市川経好により肥中関をはじめ赤間関、通関、須佐関、温泉津関の奉行に告げられている。肥中には毛利氏の奉行が配置されて海関の直轄支配を行っていた。大内領を吸収した毛利氏もまた肥中を日本海における流通支配の拠点として重視していたことを示している。
年未詳五月、毛利輝元は九州舟が肥中関を通らずに近辺の港に入港する事態への対処のため、仁保元棟に肥中関の役料を彼の領地である瀬戸崎で徴収するよう命じている。山陰を航行する九州船は肥中で関料を徴収されることになっていたことが分かるが、一方で関料徴収は必ずしも順調ではなかった様子がうかがえる。
九州侵攻の拠点
天正十四年(1586)、豊臣秀吉の九州征討の際には阿川毛利氏の軍勢が肥中から出陣している。文禄の役の際にも、仁保元棟の配下の者たちが肥中から渡海。船頭は肥中の中屋敷本田太郎九衛門だった(「山県家文書」)。