戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

雲谷 等顔 うんこく とうがん

 毛利氏の御用絵師。本名は原治兵衛直治。肥前国藤津郡古見佐賀県鹿島市)の城主・原豊後守直家の次男。子に狩野次兵衛(雲谷等益)。

雪舟画系の末裔

 父の原豊後守直家(尚家)は、肥前国藤津郡古見佐賀県鹿島市)の城主であったが天正十二年(1584)に有馬・島津氏との合戦で討死したという。等顔は父が討死する数年前に京都に上っていたと考えられている。

 後年の慶長十年十二月十四日付「福原広俊外八百十九名連署起請文」(「毛利家文書」)や「八箇国御時代分限帳」では、「狩野等顔」とみえる。「狩野」姓を名乗っていることから、京都では狩野派の絵師に入門していたことが推測される。

 その後、理由は不明ながら等顔は西国の毛利家のもとに下向。文禄二年(1593)、毛利輝元より雪舟等楊ゆかりの雲谷軒と雪舟筆「山水長巻(四季山水図巻)」を授けられた。この時に剃髪・法体して、姓を「雲谷」、名も雪舟等楊の「等」の一字をとって「等顔」と改める。すでに途絶えた雪舟流の再興を意図したものともいわれる。

 毛利輝元からの拝領にあたり等顔がしたためた文章が、「山水長巻」に付随する形で毛利博物館に所蔵されている*1

此の一軸は、多年予の蔣芸州太守黄門輝元卿の宝庫に在り、之を賜ふこと辱うし、華袞之栄、亦之を如何にせん。雪舟老人之画系的々相承すると雖も、中略懈癈して、絶たざること縷の如し、今末裔等顔某に至り、再び其の武に接す。
黄門其の来由に感じ、防之旧居雲谷軒を賜ひ、拝して眠食之地と為す。老人遺愛の勝境今猶ほ存す、老松怪石、奇花異草、緑水青山旧容を改めず。園の日渉、楽亦其の中に在り。地と云ひ、軸と云ひ、重賞、勝計す可からず。
古人云ふ、本を務めよと、本立って而して道生ず。先言以て徴すなり。

 時に文禄二戴初冬五日、現住雲谷等顔焉を誌す

 上記の中で等顔は、自らを「雪舟老人之画系」の「末裔」と称しており、毛利輝元もその「来由」に感じて雪舟ゆかりの雲谷軒を授けたとしている。等顔は前述のように当初は狩野派に入門していたとみられるが、その後に何らかの形で雪舟派の絵師と接触をもっていたことがうかがえる。天正年間はじめ頃の周防・長門地方には、雪舟派の生き残りとも称すべき絵師たちがいた存在していたともいわれている。

連歌茶の湯

 雲谷軒主となった等顔には、毛利家から周防国都濃郡において90石4斗9升3合の知行地が与えられた(「八箇国御時代分限帳」)。のちに加増を受けて102石6斗3升を得ている。この石高は毛利家中では上級家臣の下位あたりに相当しており、絵師の身分としてはかなり優遇されていたと考えられている。

 毛利家中における等顔は、絵師としてだけでなく文化面全般における毛利輝元の側近的な役割を担っていた可能性があるという。等顔の子孫にあたる原直儀が、主家に提出した『原治兵衛直儀家譜録』の「等顔伝」には、「御連歌御茶湯等之御手伝を茂仕候」という記事があり、等顔の絵師以外の活動を端的に示している。

 等顔が連歌茶の湯双方に堪能であったことは他の史料からも確認できる。連歌の分野では、慶長十一年(1606)正月十日に行われた「賦山何連歌」や同十四年(1609)十一月十八日の「賦何船連歌」などに参加していることが知られる。どちらも毛利輝元が主催した連歌会であった。とくに前者の顔ぶれは、連歌師を除けば毛利家の一族と重臣たちで占められており、等顔への連歌分野における期待がうかがえる。

 茶の湯については、京都の旅宿に滞在していた等顔が、大徳寺の江月宗玩を招いて茶を点ててもてなしたことが『欠伸稿』にみえる。また等顔は、博多の豪商で茶人としても知られる嶋井宗室の画像を描いており、それに江月宗玩が着賛している。等顔、江月宗玩、嶋井宗室の三者茶の湯を介して親密な交流を持っていた可能性も指摘されている。

等顔の画業

 雲谷軒主となった等顔の初期の代表作に、大徳寺塔頭である黄梅院方丈を飾る障壁画群がある。

 黄梅院は天正十六年(1588)に毛利輝元の叔父である小早川隆景を外護者として建立された。関ケ原合戦後の慶長五年1600)十月、輝元は同院住持の玉仲宗琇より法号「宗瑞」を授かり、師檀の契りを結んでいる。等顔が黄梅院に出向いたのも慶長五年十月から、それほど経っていない時期であったと考えられている。

 この時等顔は、南側の三室に総計44面もの障壁画、すなわち檀那之間の「山水図」、室中の「竹林七賢図」、そして礼之間の「芦雁図」を描いた。このうち「山水図」には、雪舟画の影響がみられ、また輝元から拝領した「山水長巻」を手本としたと思しき箇所もあるという。

 大徳寺での作画以降、等顔は精力的に活動している。防長移封後の新たな毛利氏の居城となった萩城や、その城下の洞春寺の障壁画制作など毛利氏の国元での活躍だけでなく、作画のために美作国津山城や江戸の桜田毛利藩邸にまで出張することもあった。

 とくに京都にはたびたび赴いたらしく、同じ大徳寺山内の龍光院・看松庵・碧玉庵、さらに東福寺にも障壁画を描いたことが知られる。

 慶長十六年(1611)、等顔は法橋に叙せられる。この年は前述の洞春寺の障壁画制作に関わったとみられる。また同年六月から八月には、毛利秀隆(輝元の子)の求めに応じて能開催時に使われる折や盃台に絵を描画。翌慶長十七年三月から四月にかけては当主毛利秀就(輝元の子)の江戸御用押絵屏風、同五月には能の道具である折箱への描画、さらに六月は能舞台松絵と毛利家の御用をたて続けにこなしている。

 慶長十八年(1613)九月には千枚の金箔を受け取って屏風を制作し、十月には毛利輝元・就隆父子の「御諷之本」表紙絵を制作している。翌慶長十九年は屏風制作。慶長二十年三月に短冊20枚の下絵、閏六月は京都御用の屏風にかかっている。これら一連の労を賞してか、毛利家から等顔に「御帷子壱ツ そめさらし」が遣わされている。

 等顔は元和四年(1618)に没した。その画業は子の狩野次兵衛(雲谷等益)や弟子たちが引き継ぎ、徐々に流派的な性格を強めていく。

参考文献

  • 山本英男 「毛利氏と雲谷等顔―大内文化への憧憬」(毛利元就展企画委員会・NHK 編 『毛利元就展ーその時代の至宝ー共通図録』 NHKNHKプロモーション 1997)
  • 吉積久年 「雲谷等顔・等益の慶長期の史料」(『山口県文書館研究紀要』第25号 1998)

雲谷等顔筆「四季山水図屏風」 メトロポリタン美術館公式サイトより

雲谷等顔筆・玉甫紹琮賛「達磨図」 メトロポリタン美術館公式サイトより

*1:原文は漢文。