戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

尾道酒 おのみちざけ

 備後国尾道およびその周辺で生産された酒。室町期以前から酒造業が盛んであったとみられ、『庭訓往来』には名産として「備後酒」がみえる。16世紀末には全国的にも知られる酒となっており、貴人の贈答品としても用いられた。

備後の酒

 室町初期に成立したとみられる『庭訓往来』の「四月十一日状」には諸国の名産品が列記されており、その一つに「備後酒」が挙げられている。また『新撰類聚往来 下』*1の「備後」条には、「酒酪久保」云々とみえる。

 備後国が、伝統的に酒造りが知られた地域であったことがうかがえる。その中心は、平安期から備後大田庄の倉敷地として栄えた港湾都市尾道であったと推定される。

歌島の酒屋の訴え

 嘉元四年(1306)四月、尾道の対岸にある歌島(現在の向島)の「在家人」から、彼らにかけられる酒年貢の員数を減らすようにとの訴えが出された(「歌島在家人等重申状案」)。

 歌島には酒屋が4、5軒しかなく、嘉元二年と同三年は莫大な酒を納めたにも関わらず、いまだその直銭を払ってもらっていないし、今年も来秋に米15石を渡すという条件で30余貫もの酒を納めなければならないのは真に耐えがたい、とのことであった。

 「在家人」とは、田畑を耕作せずに金融を仕事とする人々であるが、歌島では、そのうちの何人かが酒屋を営み、30余貫もの量を年貢として納める程に酒造を行っていた。歌島における盛んな酒造りの背景には、対岸の尾道の需要があったとみられる。

尾道酒の登場

 尾道酒は慶長初年頃から史料上にみえるようになる。『多聞院日記』の慶長四年(1599)九月十七日条には「宅道酒樽一来候」とあり、続けて「一段酒ニテ候、色クロク味能候」として尾道酒を高く評価している。この時は塩水につけた松茸を肴にしており、これも「味能候」としている。

kuregure.hatenablog.com

 また『御湯殿上日記』の慶長五年(1600)六月八日条には、毛利輝元が禁裏に銀20枚とともに「おのみちの御たる十しん」を進上したことが記されている。

尾道商人による酒の販売

 16世紀末、毛利輝元は奉行人・佐世元嘉を通じて尾道の有力商人・泉屋一相から畳表(備後表)と酒の調達を図っていた。一方で泉屋は、畳表については、輝元に安物をつかませていたらしい。輝元は元嘉に泉屋の叱責を命じるとともに、同じく調達させている酒についても、領国外に良いものを出荷しているから畳表と同じことにならないように注意を促している。

kuregure.hatenablog.com

 尾道やその周辺で造られた酒が、尾道の商人たちによって京都や大坂など上方方面に販売されていたことが分かる。

全国的な名酒

 『太閤記』巻十六には、慶長三年(1598)三月十八日に、豊臣秀吉が醍醐の花見を催したときに用意された酒が列記されている。そこに「加賀の菊酒」や「天野」、「博多の煉」、「江川酒」などとともに「尾の道」がみえる。少なくとも『太閤記』が成立した寛永二年(1625)には、尾道酒が全国的に知られた名酒だったことがうかがえる。

 正保四年(1657)刊行の『毛吹草』巻4にも、備後の名産として尾道酒と三原酒がみえる。

kuregure.hatenablog.com

日持ちのする酒

 寛文三年(1663)の序文がある地誌『芸備国郡志』によれば、尾道酒は味が醇厚で、日数を経ても損なわれないという特性があったという。このため、中国や朝鮮、東京(ベトナム)、東蒲塞(カンボジア)、 呂宋(ルソン)、琉球へ行く日本の船は、必ず尾道酒を樽で購入し、船中の用に充てたとしている。

参考文献

  • 広島県 編 『広島県史 中世 通史Ⅱ』 1984
  • 小野晃嗣 「中世酒造業の発達」(『日本産業発達史の研究』 法政大学出版局 1981)
  • 加藤百一 「城下町の銘酒(その1)」(『日本醸造協会誌』97巻 2002)
  • 広島県立歴史博物館 編 『海の道から中世を見るⅡ 商人たちの瀬戸内』 広島県立歴史博物館友の会 1996

尾道の町と対岸の向島(歌島)

太閤記8(国立公文書館デジタルアーカイブ

*1:室町中期に作られた往来物とされる。刊行は慶安元年(1648)。