戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

廻神 元正 めぐりがみ もとまさ

 毛利家臣。藤十郎。父は廻神就吉、母はおせん。幼少より元就・隆元父子の近くに仕えたが、永禄五年(1562)四月、石見国松山城江津市)攻めの際に討死した。

元正以前の廻神氏

 廻神氏は元は松田氏を称していたが、元正の伯父・氏吉の時に備後国三谿郡廻神(現在の三次市神町*1に住んだことから廻神氏を名乗るようになったという。

 氏吉は毛利元就に仕えていたが、出雲国において父の氏行(元正の祖父)とともに討死。跡を氏吉の弟で元正の父である就吉が継いだ(『萩藩閥閲録』巻94)。なお氏吉・就吉には石見国人・佐波興連の妻となった姉妹がいた(『萩藩諸家系譜』)。

毛利家への出仕

 元正は幼少の頃から毛利家に仕え、油断無く奉公したという(『萩藩閥閲録』巻94)。『万代記(厳島合戦之記)』という近世史料には、天文二十四年(1555)の厳島合戦後、毛利元就陶晴賢の首実検をする際に、廻神藤十郎がそばに控えていたことが記されている。この時藤十郎は「御弓を持ち、矢をつがひ、乙矢(二番目に討つ矢)を右の手ににぎり、右のひざにもたせ居り候」とある。没年から逆算すると、当時十一歳であった。

 一次史料では、年未詳の「宮仕衆付立」に、粟屋弥六、粟屋弥五郎、蔵田弥六、信常太郎兵衛らとともに廻神藤十郎の名が確認できる(「山口県文書館所蔵文書」)。

毛利隆元の無念

 永禄五年(1562)、毛利氏は尼子方の石見国人・福屋隆兼を討つため、二月五日に河上松山城島根県江津市)を攻撃。この時の合戦で、元正は討死した。当時十八歳であったという(『萩藩閥閲録』巻94)。

 同年四月九日と二十七日、毛利隆元は元正の父・就吉に対し、弔意を示して弔料千疋を贈り、元正の甥の万鶴丸(後の廻神元行*2)の跡目相続を承認。元正の6貫文分の給地と浮米15石を充行うことを伝えている(『萩藩閥閲録』巻94)。

 隆元は元正の母おせんにも、書状をしたためて弔意を伝えている。内容は就吉に対するものとほぼ同様であるが、「いくたひ申候てもくちおしく候々」「ないないほうかう(奉公)ゆたん(油断)なく候まま、一しほ心やすくおもひ候つる」「せいしん(成人)の事候まま、いよいよその心さしをもなし候するとおもひ候ところに、かくのことく候て千万くちおしく候々」など、より率直に無念の心情を述べている(『萩藩閥閲録』巻94)。

輝元と元正母の交流

 毛利隆元は、元正の死の翌年となる永禄六年(1563)八月に没した。それから約40年が経過した慶長六年(1601)以後とみられる某年二月、隆元の子・輝元は、当時まだ存命であった元正の母おせんの無事を知り、彼女に古着を贈っている。おせんは七十歳前後になっていたとみられる。

 元正の没年時、輝元は十一歳であったが、後々まで隆元の遺志を忘れずに廻神元正の親を気にかけていたと考えられる。

参考文献

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三次市神町の艮神社。艮神社の鎮座する地の小字地名は土居といい、ここが廻神氏の居館跡と推定されている。

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河上松山城跡の遠景。

*1:廻神の地は、備後国人・江田氏の支配地であったとみられるが、天文二十二年(1553)に毛利氏に攻められて滅亡。弘治三年(1557)頃、廻神七百貫の地が三吉致高の知行となっている(「毛利家文書」)。

*2:佐波興連の三男。就吉の姉妹は興連に嫁いでいる(『萩藩諸家系譜』)。