陶氏被官。陶隆房(晴賢)に仕えた。官途名は市佑、のちに佐渡守か。天文年間に陶氏の奉行人や東福寺領得地保の代官を務めている。厳島合戦で陶晴賢の身代わりとなって討死した柿並佐渡入道と同一人物の可能性がある。
陶氏の得地保代官
天文年間、賀藤左近将監に対し「毛利掃部允房継」と「柿並市佑房友」が連署で文書を発給している(「譜録」阿曽沼内記秀明)。毛利房継は天文十九年(1550)まで周防国佐波郡得地保*1代官であり、天文年間には陶氏奉行人としても活動している。房継と連署している柿並房友も陶氏の被官であり奉行人であったとみられ、実名の「房友」は陶隆房またはその養父・興房からの偏諱と推定される。
天文十九年(1550)に周防国に下向した東福寺僧の梅霖守龍による『梅霖守龍周防下向記』によれば、東福寺領得地保中村・下村の代官に、陶隆房被官の「柿並市佑」(房友)が就任していることが知られる。
また、この五年後の天文二十四年(1555)の得地保正税米算用状には、東福寺から「柿並佐渡守」に対し折紙銭として壱貫文が支払われていることが記されている(「東福寺文書」)。得地保代官の柿並市佑房友が後に佐渡守の官途を称したとみられる*2。
大寧寺の変と厳島合戦
天文二十年(1551)八月二十八日、房友の主君・陶隆房が大内義隆に対して挙兵。翌九月一日、大寧寺(山口県長門市)に逃れた義隆一行を攻め滅ぼしたのが「陶殿足軽大将柿並」という人物であった(「大内殿滅亡之次第」)。
「足軽大将柿並」が房友と同一人物であるかは不明だが、柿並氏が陶氏の奉行人や代官を務める一方で、軍勢を率いる部将として隆房の軍事面を支える存在であったことがうかがえる。
天文二十四年(1555)十月一日の厳島合戦でも房友は陶晴賢(隆房)に従って戦ったとみられる。この時、毛利方の新里隆溢被官・脇弥左衛門尉に対し、陶晴賢被官の柿並佐渡入道が自分の首を晴賢の首として持って行くように申し出て、討たれたという(『房顕覚書』)。上述の「東福寺文書」にみえる「柿並佐渡守」が房友と同一人物であれば、柿並佐渡入道は出家した房友とみなすことができる。
厳島合戦の三ヶ月後の天文二十四年十二月四日、「柿並流阿」という人物に宛行われていた周防国佐波郡蘆樵寺(山口県防府市)領の半済分が、大内氏から同寺に返還されている(『防長風土注進案』)。「柿並流阿」と厳島合戦で討死した柿並佐渡入道が同一人物であるとすれば、知行主の死亡が寺領半済分の返還につながった可能性があるという*3。
その後の柿並氏
なお「譜録」(柿並多一郎正長家)系図および「萩藩閥閲録」巻120にみえる柿並氏の系図には、房友の名は見えない。一方で柿並隆正(四郎三郎、佐渡守)が弘治元年(1555)に三十三歳の時に厳島合戦で討死したとある。房友および佐渡守(佐渡入道)の事績をふまえると、隆正と房友は同一の人物を指している可能性が高い*4。
系図では柿並隆正は厳島で討死したが、次代の柿並淸左衛門尉幸慶は毛利氏に仕え、天正二年(1574)十一月に毛利輝元から佐渡守の官途名を認められている(「萩藩閥閲録」巻120)。また天正十四年(1586)十一月には、柿並四郎三郎慶覚が輝元から與左衛門尉に任じられている。
仮名を四郎三郎とし、官途名を佐渡守とした柿並氏の系統が、毛利家臣として江戸期まで続いたことが分かる。