戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

江良 重信 えら しげのぶ

 陶氏被官。官途名は丹後守。陶弘房とその子弘護に仕えた。応仁文明の乱では、在国して所領支配を担当した。大内教幸(道頓)が大内政弘に反乱を起こすと、弘護による石見益田氏との交渉に関わった。

応仁文明の乱と陶弘房の上洛

 応仁元年(1467)、応仁・文明の乱が勃発し、同年八月に周防大内氏当主・大内政弘は西軍として上洛する。陶氏当主の陶弘房も政弘に従って京都に上ったとみられる。

 翌応仁二年(1468)九月、陶弘房は在国していた江良丹後守(重信)および浅江美濃入道(道寿)、伊香賀伊賀守(盛種)、安岡和泉入道(重村)、近藤佐渡守に対し、周防国都濃郡富田の正税米を間違いなく東大寺に納めるよう命じている(「東大寺文書」)。

 また弘房とともに上洛したと思しき安村重家、野上景郷、姓不詳種宗ら陶氏家臣からは、富田での船積みの際に、当年分の正税米も運上するようにと補足の書状が送られている(「東大寺文書」)。江良重信らは本国にあって所領支配とともに京都への補給も担当していたとみられる。

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 なお陶弘房は同年十一月、京都で死没。跡は嫡男の弘護が継いだ。

大内教幸の反乱

 文明二年(1470)、政弘の伯父・大内教幸(南宋道頓)が東軍の細川勝元に通じて長門国赤間関で挙兵。一族の大内武治や有力被官の内藤武盛、仁保弘有、仁保盛安らも教幸に味方する事態となる。陶弘護も当初は教幸に同調し、周防屋代島の長崎盛親(重親嫡子)を教幸方へ引き込む調略を担っている(「萩藩譜録長崎首令高亮」)。

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 一方で弘護は早い段階で大内政弘方に通じていた。同年八月六日、石見国の益田兼堯・貞兼父子に対し「政弘一味」を誓う起請文を提出。益田氏も同意したことは「誠以本望」と伝えている(「益田家文書」)。

 同年十二月、陶弘護は政弘方として蜂起。翌文明三年(1471)正月二日、益田貞兼に宛て、安芸国に侵攻した大内教幸の敗走を伝えるとともに、教幸方の吉見氏領に益田氏が侵攻したかどうかを尋ねている。弘護と貞兼は連携した軍事行動を約束していたらしい。弘護は吉見氏が周防国玖珂郡山代や長門国阿武郡地福に軍勢を進めようとしているとして、貞兼に「少も遅々候てハ不可然候」と早期の出陣を要請している(「益田家文書」)。

 文明三年(1471)二月、弘護は益田貞兼を賞して、長門国阿武郡内河島新方350石および周防国吉敷郡内恒富保360石の知行給付を約束。翌三月七日、大内家臣・高石重幸から江良重信に対し、恒富保および河島新方の益田氏への給付状況の経過報告が行われている*1

益田貞兼の疑心

 文明三年(1471)九月二十二日、大内教幸、同武治、吉見成頼、三隅長信、周布和兼、小笠原又太郎、仁保盛安らが長門国阿武郡の賀年城への攻撃を開始。同城を後詰する大内政弘方と各地で合戦となった。

 十一月七日、益田貞兼は石見国吉賀郡豊田に出陣し、同国美濃郡赤城を攻略。さらに同九日、賀年城麓での合戦に勝利し、十一日に石見国美濃郡長野荘に立て籠もる豊田右衛門尉被官を攻め落とした。十二日、賀年城を攻めていた教幸方が撤退。次いで貞兼は同十五日に長野荘内の「カケノ城」を、翌十二月三日に石見国美濃郡高津の小城を陥落させたという(「益田家文書」)。

 ただ、益田貞兼には陶氏への疑心が生じていた。同年十月十五日、陶弘護が貞兼に宛てた書状に以下のような記述がある。

吉(吉見氏)と我々と一味にて、其御方をハすて申へき様に方々御心得由、泉福庵申候、おとろき入存候、其御方と我々とか事ハ善悪共に可為一味候、弓矢八幡も御罰候へ、非余儀候、御同心候者所仰候

 吉見氏と陶氏が一味して益田氏を捨てるとの風聞について、これを必死に否定している(「益田家文書」)。さらに十一月四日には、弘護は貞兼に対して再度起請文を出し、益田氏に対しては「政弘御一味」として余儀がないこと、今度の戦争で絶対に見捨てない事を誓っている(「益田家文書」)。

 その後、益田氏は上記のように各所で教幸方を破り、賀年城防衛戦の勝利に貢献する。十一月十四日、江良重信は陶弘護の使者として益田貞兼のもとを訪れ、貞兼の活躍を喜ぶ弘護の意を伝え、祝儀の太刀一腰を進上している(「益田家文書」)。

益田氏の宿願

 益田氏は吉見氏と美濃郡長野荘、特に七郷、美濃地、黒谷と呼ばれる地域をめぐって争っていた。益田氏が大内政弘方となった本来の目的は、この長野荘の安堵を幕府から得ることにあったとみられている。

 しかし益田氏への長野荘の安堵は、順調ではなかったらしい。文明三年(1471)末頃、大内政弘母(妙喜寺殿)は益田貞兼に対し、長野荘安堵について京都に取り次いでいるが、なかなか返事の来ないこと、けっして益田氏の安堵問題を疎かに取り扱っているわけではないことを繰り返し述べ、引き続き貞兼に政弘方としての尽力を求めている。

 翌文明四年(1472)においても状況は変わらなかった。大内政弘母は、益田氏宛の書状の中で、「なかのゝしやう」(長野荘)の事について、京都へ申請しているが、未だに文書が届かない事を伝えている(「益田家文書」)。

 政弘母はさらに、大内政弘が下向してきて何か謂れの無い事を行ったとしても、この度の合戦で益田氏が終始尽力したことは自らが心得ているので、長野荘のことは相違無いと述べている。安堵の文書を得られない中で、政弘母が益田氏に対して自筆書状でもって安堵獲得を保証しようとしたものと考えられる。

 上記の政弘母の書状には「すゑかた(陶方)より申候ほとに」とあり、陶弘護の要請に基づいて出されたものであった。弘護自身も文明四年十月十六日、益田貞兼に対して再々度の起請文を提出。吉見成頼の降伏は絶対に受け入れない事や、国衆が一味同心して貞兼に敵対した場合でも見捨てない事などを誓っている(「益田家文書」)。

 同日、野上備前守景郷、安村藤右衛門尉房家、安村因幡守重家、江良丹後守重信、山崎伊豆守秀泰ら陶氏家臣も、弘護起請文と同内容の起請文を連署で益田氏宿老衆*2に提出している(「益田家文書」)。

益田氏、東軍に転じる

 文明四年(1472)十一月十五日、陶弘護は江良重信と泉福庵の両名を使者として益田貞兼に派遣し、長門国豊田郡の知行を預ける旨を伝えた(「益田家文書」)。

 しかし益田氏はこの頃には、大内政弘および西軍方に見切りをつけ、東軍方に転じていた。

 同年十一月十三日、将軍足利義政の御判御教書が発給され、長野荘の「黒谷郷地頭職、美濃地村地頭職」と長野荘内の係争地が益田氏に安堵されている。さらに文明六年(1474)七月二十八日、同じく足利義政御判御教書によって、七郷、上黒谷、美濃地を含む長野荘内還付が命じられている。

 また年未詳(文明四年以降)十一月、足利義政は益田越中守(兼堯)宛の御内書で、「忠節之旨」を大内左京大夫入道(教幸)から報告があったとして、「尤神妙、弥可抽戦功候也」と伝えている(「益田家文書」)。

江良丹後守の系統

 なお、江良重信の官途名は丹後守であることから、後に陶隆房(晴賢)の重臣として活躍する江良丹後守房栄は重信の系統とみられる。

 天文二十一年(1552)十月、房栄は誕生日を祈念して長光の剣を厳島神社に寄進(「厳島野坂文書」)。この時の文書から永正十四年(1517)の生まれであったことが分かる。房栄が重信の子孫であるとすれば、その曽孫あるいは玄孫にあたるか。

参考文献

大日本史料 第8編之5 (国立国会図書館デジタルコレクション)

*1:この時点で、恒富保は大内家臣の江口右衛門尉貞経と美和蔵人の両名の渡状が、益田氏代官の勝達坊に送付が完了したとのこと。河島新方についても、杉豊後守弘重の代官である杉大蔵丞から益田氏に渡状が出される予定であるとのこと。

*2:この時の宛先は下民部丞、寺戸備後守、岩本筑後守、吉田修理進となっている。