戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

内海 定光 うちのうみ さだみつ

 大内氏被官。内海衆*1。仮名は三郎九郎。

九州北部での戦い

 『正任記』*2に、十月十三日付けで、内海三郎九郎定光が筑前国鞍手郡と嘉摩郡に所領を得たことが記されている。

 大内政弘は前年の文明九年(1477)に、応仁・文明の乱の終結にともなって京都から帰還しており、この年は上洛中に撹乱された九州の旧領に向けて出兵していた。定光ら内海衆は、大内氏に動員されて九州に出兵し、戦功を挙げたものとみられる。

 『正任記』からは、内海衆以外にも三ヶ嶋衆(呉衆、多賀谷氏、能美氏)や黒瀬氏ら安芸南部の武士団が動員されていたことが分かる。

竹原小早川氏の傘下に

 定光の代であるかは分からないが、15世紀末頃に作成されたとみられる『小早川弘景置文』には、内海衆が竹原小早川氏の「内之者」(譜代家臣)の一人としてみえる。置文には、内海衆について「内海衆今新参にて」とある。小早川弘景が置文を作成した頃に、新たに竹原小早川氏の家臣団に加わっていたことが分かる。

 また、同じく置文には「これは風早同名にて候」とも記されており、内海衆が風早氏の一族であることが触れられている。ここに挙げられた風早氏は、風早(内海に東に隣接)を本拠とし、竹原小早川氏の「内之者」の中でも高い格式を持っていた。

参考文献

  • 『正任記』(『山口県史』史料編 中世)
  • 『小早川弘景置文』(『中世政治社会思想 上』岩波書店 1972)

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広島県呉市安浦内海の墓地に安置されている中世の石塔群。宝篋印塔の笠や塔身、五輪塔の火輪等の部材が確認できる。

*1:内海(現在の広島県呉市安浦町内海)を本拠とした武士団。

*2:大内政弘の祐筆であった相良正任が記した文明十年(1478)十月の日記。