戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

長崎 重親 ながさき しげちか

 大内家臣。官途名は隼人佐、後に丹後守。盛親の父。勝親  の祖父。周防国大島郡島末庄を本拠とした。大内盛見死後は、持世に味方してその勝利に貢献した。

室町期以前の長崎氏

 「譜録」の系図によれば、長崎氏は周防国大島郡西方長崎(現在の山口県周防大島町)に居住し、在地名により長崎氏を称したという。

 始祖の親康が大島郡島末庄の下司職に補任され、その子孫の光親や朝光は、同庄の惣公文職を保持したと伝わる。島末庄の開発領主として、古くからこの地を基盤にしていたと考えられている。

防大内氏の内訌

 永享三年(1431)、大内氏当主・大内盛見が筑前国で討死。家督をめぐって甥の大内持世・持盛兄弟の内訌が勃発した。

 持世が周防山口を奪回して間もない永享四年(1432)四月、重親は持世から屋代島末内本知行半分が宛行われている。持世に味方した恩賞とみられる。同年八月、持世は重親が周防竈門関(上関)に関して奔走したことを喜び、勝利を得ることができて「祝着無極候」と述べている。重親が警固衆として周防海域で動いていたことがうかがえる。

kuregure.hatenablog.com

応仁文明の乱

 応仁文明の乱に際し、大内勢は当主の政弘に率いられて上洛。西軍の主力として活躍した。しかし文明二年(1470)二月頃、国元で政弘の伯父の道頓が東軍方として挙兵すると、在京・国元問わず多くの有力家臣が道頓に従う事態となった。

 そんな中、重親は政弘方に留まったらしく、道頓方に給地を没収されていた。文明二年(1470)九月、仁保盛安ら道頓方の奉行人が重親の嫡子・小太郎(盛親)への給地返還を認める文書を発給している*1。その条件は父重親との「義絶」であった。長崎氏もまた、政弘方と道頓方で家中が分裂していたことがうかがえる。

参考文献

  • 和田秀作 「「譜録」長崎首令高亮及び山中八郎兵衛種房の翻刻と紹介」 (『山口県文書館研究紀要』第47号 2020)

f:id:yamahito88:20220208224702j:plain

上関大橋から見た上関海峡。永享四年(1432)、長崎重親は上関に関わり奔走した。

*1:この文書の宛先は陶弘護。長崎小太郎盛親は弘護の調略で道頓方に付いたとみられる。