周防国中部、富田川河口部の港町。山陽道が通過する陸路の要衝にも位置する。南北朝期に大内氏の重臣・陶氏の本拠となって以降、周防国内の東大寺領や東福寺領など同氏支配地域の物資集散を担う経済拠点として栄えた。
年貢の積出港
文安元年(1444)十月、幕府は東大寺領周防国国衙正税や富田荘地頭職年貢、材木、雑具などについて「海河上諸関渡」における勘過を認める書状を発給。これら物資の集積・積出港の一つが富田だったと思われる。
文安二年(1445)の『兵庫北関入舩納帳』によれば、この年、米や小麦、大麦、周防塩などを積んだ富田船が兵庫北関に3回入港しているが、うち1隻は東福寺の過書とともに米650石を輸送している。また応仁二年(1468)二月に国衙目代玉瞬が東大寺油倉に宛てた「富田公用米送状」によると、東大寺の年貢米のうち本年分と前年未進分が「富田弥増丸」で兵庫まで運ばれ、東大寺代官に引き渡されている。
陶氏は上下得地保などの東福寺領も支配していた。輸送拠点でもある富田には、東大寺領や東福寺領をはじめとして周辺各地から物資が集積されていたとみられる。
遣明船候補「富田弥増丸」
明への渡航も可能な大型船が、富田には所属していた。応仁二年に渡航した遣明使の記録『戊子入明記』には、遣明船候補の船の一つとして「周防国富田弥増丸 千斛」が挙げられている。先述の東大寺の年貢米を兵庫に運んだ「富田弥増丸」と同一の船の考えられる。
富田と海外との通交をうかがわせる事例もある。『海東諸国記』によれば、同じく応仁二年(1468)に「富田津代官」の「源朝臣盛祥」という人物が、朝鮮に使節を派遣している。永禄五年(1562)に、倭寇対策もあって編纂された日本研究書『籌海図編』にも、「周防州」の地名の一つに「東大(とんだ)」がみえる。
富田の市場
防府宮市の合物商人・兄部氏の史料『兄部文書』の一つで、元応元年(1319)正月三日付の「某氏下知状」という文書がある。この文書で宮市の兄部五郎太郎は、周防国の合物売商人らの長職に補任されたとする。その職権の範囲は、東は「富田市」、西は「賀川市」、北は「大内」ならびに「得地市」であり、このエリアの合物商人は兄部氏の成敗に従うことを定めている。
この文書自体は、実際は16世紀に偽造されたとみられている。しかし、少なくとも16世紀当時は、富田市は宮市を中心とする兄部氏の商圏の東限に位置していたことを示している。
合物は、鮮魚と乾魚との間の物を意味する。しかし応永十一年(1404)の「あい物商人方之売物事」では、当時の合物座が扱う品物を「魚塩」、「足鍋」、「大小斗舛はかり物」、「あを物」、「色々海之売物」、「竹さいく売物」、「其外色々」としている(『兄部文書』)。合物にとどまらず、日常物資全般が扱われていたことが分かる。
富田市の名は、天正十五年(1587)の「九州御動座記」や「楠長諳九州下向記」などにもみえる。