戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

高津 たかつ

 石見国西部、高津川河口部の港町。13世紀前半には高津郷における津湊の存在が確認できる。高津川・益田川流域の物資集散地として栄えたとみられる。

「彼郷津湊等」

 延応二年(1240)四月、石見国長野荘内高津郷の郷務をめぐる地頭・兵衛尉盛宗*1荘園領主(雑掌)との相論において、六波羅探題北方の北条重時評定衆の斎藤長定に対し、鎌倉の評定への披露を依頼した。この書状の中に「彼郷津湊等」という文言がある(「益田實氏所蔵文書」)。

 このことから、13世紀前半の高津郷には「津湊等」(港)が成立していたことがうかがえる。また「津湊等」という表記から、高津郷には「津」と「湊」という立地条件*2の異なる複数の港が存在していた可能性もあるという。

中世高津郷の景観

 19世紀に描かれた「石見国高津川水域大絵図」では、高津川の河口域に形成されたラグーンに面した場所に港が描かれている。15世紀中頃に成立した『正徹物語』にも「石見の高津という所也、此所は西の方には入海有りて」という記述がある。この「入海」が、高津川河口域のラグーンに該当するとみられる。中世の高津郷の「湊」も、近世同様に河口域のラグーンに面して存在したのかもしれない。

 また「石見国高津川水域大絵図」では、柿本神社(中世の高津城跡)の門前市近くに「大渡シ」(高津川の渡し場)の記載がある。この辺りに「津」があった可能性が指摘されている。

高津川流域の積出港

 高津川および益田川流域では、12世紀前半から半ばにかけて長野荘と益田荘という二つの荘園が成立した。益田川河口部では、11世紀後半から12世紀前半に成立したとみられる港湾遺跡(沖手遺跡)が確認されている。また沖手遺跡からやや遅れて成立したとみられる中須東原・西原遺跡もみつかっている。高津の港も、河川流域の荘園開発の中で物資集散地として形成されたと考えられる。

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 高津川流域では材木の生産が盛んであり、石見国外にも移出されていた。高津の港は、この材木の積出港でもあったとみられる。

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 高津川での活発な河川水運を裏付けるものとして「河関」の存在がある。永徳三年(1383)八月十日付で作成された益田兼見から嫡子・兼世への譲状に「長野庄内飯田村 加虫追河関了」とあり(「益田家文書」)、高津から少し上流の飯田や虫追のあたりに「河関」*3が設けられていたことが分かる。

 河関では、河川を使って運ばれる物資への関税徴収が行われていたと考えられる。その権益は、譲状に記載するほど大きいものであったのだろう。

天正十九年の高津郷

 高津の港は、戦国期にも継続して存在した。天正十九年(1591)正月十一日付の「石見美濃郡益田元祥領打渡検地目録」の高津郷の所領記載の中に「高津浦屋敷銭・船役料」という文言がみえる(「益田家文書」)。

参考文献

  • 田中大喜 「石見国高津川・益田川河口域の集散地と武家領主」(田中大喜 編『中世武家領主の世界ー現地と文献・モノから探る』 勉誠出版 2021)
  • 中司健一 「文献からみた中世石見の湊と流通」(中世都市研究会『日本海交易と都市』 2016 山川出版社

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浜寄地区から見た高津の町と高津城跡(柿本神社)。

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松崎の碑。高津5丁目の恵美須神社隣にある。柿本人麻呂を祀る神社は、延宝九年(1681)までこの地にあったという。

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看板「益田道路と浜寄・沖田地区の変化」

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高津川に架かる高角橋から眺めた高津城跡(柿本神社)。

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柿本神社の参道。

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柿本神社楼門。延宝九年(1681)の社殿移転の際に建築された。

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柿本神社本殿。延宝九年(1681)の建立。

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南方の角井地区から見た高津城跡(柿本神社)。

*1:藤原重保の孫。重保は長野荘領家・卜部氏から高津郷下司職に補任されている。盛宗の子・長盛は、元徳三年(1331)六月十日付けの六波羅御教書写の宛所「高津兵衛二郎入道」に比定されている。高津氏は南北朝期には石見国西部で強勢を誇っていたが、後に没落し、高津郷も失った。16世紀前半の当主・高津久幸は、「長野庄高津郷地頭職」を称しており(「御神本系図」)、高津郷を回復していたようだが、益田氏の被官となっている。

*2:「津」は海辺や河川内に立地し、水上交通の中継地になる港に付けられる傾向があるのに対し、「湊」は河川が海に注ぐ河口域に設けられ、外洋海上交通と内陸河川交通の結節点となる港に付けられることが多いとされる。

*3:応永五年(1398)七月の文書には「虫追 加関口事」とあり(「益田家文書」)、「河関」と「関口」が同じような意味で使われたと考えられる。