戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

見島 みしま

 萩沖、約90キロメートルの日本海に浮かぶ見島の港町。山陰と対馬朝鮮半島を結ぶ中継点にあった。見島はその地理的条件から、奈良・平安期においては朝鮮半島をにらんだ防衛拠点であった。中世には、大陸との交流の拠点となった可能性も指摘されている。

大陸との最前線

 見島には、「見島ジーコンボ古墳群」と呼ばれる遺構がある。その築造の最盛期は、9世紀頃(平安初期)とみられている。対外的な前線基地としての、見島の防衛を担った人々の墓の可能性も指摘されている。

 また見島の民家の地下から、中国の北宋時代の貨幣を中心に、唐代の開元通宝から元代の至大通宝に至る中国貨幣が、一千枚以上発見されている。日本では鎌倉末期から南北朝期にあたる時代であり、この頃見島で対外貿易が行われていた可能性もあるという。

朝鮮半島との交流

 室町期、朝鮮政府の要請を受けた足利義満が、大内義弘に「三島倭寇」の討伐を命じている。この朝鮮を脅かした「三島倭寇」の本拠地「三島」については、見島に比定する説がある。その裏づけとして、『海東諸国記』中の地図には長門沖に「箕島」と書かれた大きな島が見える。

 見島と朝鮮半島との関係では、応仁三年(1469)に「長門州三島尉伊賀羅駿河守藤原貞成」なる者が朝鮮政府に遣使している。偽使の可能性もあるが、その場合でも見島が朝鮮に知られていることを前提にしていると考えられる。後に石見国津和野の国人・吉見氏も、朝鮮政府に対し「三島守」を名乗って図書を受け取っている。

益田氏と見島

 戦国期の見島は、石見益田の国人・益田氏が益田藤兼の時代から領有していた(「益田文書」)。永禄十二年(1569)五月三日の見島郷八幡宮の棟札には、大旦那として益田藤兼・元祥父子の名と、願主の山田長門守氏相(見島の土豪)の名が記されている(『防長寺社由来』)。

 益田氏は虎皮など朝鮮の産物を入手したり、対馬の宗氏と直接交流*1するなどしている。見島を中継点とした、朝鮮海域への関わりが想定される。

参考文献

  • 岸田裕之「石見益田氏の海洋領主的性格」(『大名領国の経済構造』) 岩波書店 2001

海東諸国紀 国会図書館デジタルコレクション
長門沖に「箕島」が記されている

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見島ジーコンボ古墳群。

*1:対馬の宗義調と益田藤兼は、太刀や弓を贈りあっている(「益田文書」)。