2025-01-01から1年間の記事一覧
沖縄本島の北方約110kmに位置する火山島。15世紀には鳥島と呼ばれ、琉球国の硫黄産地として朝鮮にも知られていた。少なくとも江戸初期には人が居住していたことが文献にみえる。
安芸国の蒲刈島を本拠地とする蒲刈多賀谷氏の当主。子に興景。大永三年(1523)に出雲尼子氏に降伏したことが、江戸期編纂の「譜録」にみえる。
石見国都野郷の国人領主・都野氏の当主。官途名は刑部少輔。都野長保の子か。毛利氏に味方して勢力拡大をはかり、上村・神主の権益を回復した。また都野氏が江津へと本拠を移した時期は隆保の時代と推定されている。
石見国都野郷の国人領主である都野氏の当主。官途名は新左衛門尉、後に駿河守か。都野隆保の父とみられる。尼子方の安濃郡大田郷作山攻めに石見吉川氏、石見小笠原氏らとともに加わり戦功を挙げる。また江津を実効支配していたことが「益田家文書」にみえる。
石見国都野郷の国人領主である都野氏の当主。官途名は遠江守。実父は小笠原長定(石見国邑智郡河本郷の国人領主)。実兄は小笠原長隆。大内義隆によって所領を江城料所として指定され、福光郷に替地が与えられた。
石見国都野郷の港町。現在の島根県江津市都野津町。都野郷の武士である都野氏の拠点の一つだったとみられる。石見国を代表する港の一つであり、中国明朝の『日本図纂』に「撮奴市」として記されている。
石見国最大の河川である江の川(ごうのかわ)の河口部に位置する港町。江の川の河川水運は鎌倉期前半に遡るとされ、その頃から河口の港町として成立していた可能性がある。都野郷の国人領主である都野氏が江津を支配したとみられるが、江要害とよばれた城塞…
石見銀山の住人。浄土宗系の在家信者とみられる。弘治三年(1557)、妻とともに発願して板碑(板状に加工した石でつくられた供養塔の一種)を建立した。この板碑は「弘治三年銘 阿弥陀三尊種字 六字名号 自然石板碑」と呼ばれている。
小早川隆景の肖像画。寸法は88.1cm×44.0cm。16世紀末から17世紀初頭の制作とみられる。もとは毛利家に伝来し、明治十三年(1880)八月に毛利元徳から小早川三郎へ譲られた。明治十三年(1880)八月に毛利家当主毛利元徳から小早川三郎に譲…
鎌倉末期に備後国で活動した刀鍛冶。のちに水呑(福山市)・草戸周辺を拠点に広がった“法華派刀鍛冶”の祖とされる。日蓮の弟子・日像に帰依し、開基として妙顕寺建立に尽力した。
鎌倉中期の備前・福岡一文字派を代表する刀工。父は吉家で、弟に吉友、また婿には吉房がいたとされる。紀州徳川家に伝来し、現在は国宝に指定されている太刀を作った刀工として知られる。
備前国吉岡郷(岡山市東区瀬戸町万富)に所在した「万富東大寺瓦窯跡」で焼かれた瓦。東大寺の再建に使用された。建仁三年(1203)の「備前麦進未進納所惣散用帳」には、備前国から東大寺へ納められた「吉岡御瓦」が記録されており、同窯跡が南都(奈良…
楯築神社(岡山県倉敷市矢部)に御神体として祀られていた神体石。重要文化財指定名称は「旋帯文石」。成立年代不明の『楯築神社縁起』では「白頂馬龍神石」と呼ばれている。現在は楯築遺跡の墳丘脇の収蔵庫に納められている。
明朝で16世紀に開発された火砲。歩兵による運搬が可能かつ拠点防御に適した。虎の蹲踞した姿勢に似ていることからこの名がついた。日本軍の侵攻を受けた朝鮮に援軍としておもむいた明軍も装備しており、のちに朝鮮は国産化をはかっている。
ベトナム北部のラム川河口にあった港町。外国商船が来航するようになっており、17世紀初頭には日本の朱印船も寄港したとみられる。会統からラム川を通じてラオスの都ヴィエンチャンへと陶磁器などが輸送されるルートがあった可能性も指摘されている。
アメリカ、アラスカ州西部のユーコン・クスコクウィム・デルタにあった先住民ユピックの古代集落。西暦1350年から1650年頃にかけて人が住んでいたとみられている。なお「ヌナレク」はユピック語で「古い村」を意味する。
アメリカ、ニューメキシコ州チャコ・キャニオンの遺跡群にある集落跡。古代チャコ文化の中心地であったとされ、9世紀後半から12世紀後半(日本の平安後期~鎌倉初期)にかけて建設された。最大4階建ての石造りの建物群で構成され、メソアメリカとの交易…
中国南宋の張九成によって著された儒書。宋代の刊行本が唯一、京都東福寺に現存している。端麗な宋版の実例としての書誌学的価値から、国の重要文化財に指定されている。
16世紀末の壬辰戦争(文禄・慶長の役)で朝鮮軍が使用した火器。鉄の容器に火薬をつめた時限式の爆弾であり、着弾後にしばらくして爆発を起こし、内蔵された鉄菱が飛び散り周囲の敵をなぎ倒した。
羊挽き肉と葱入り溶き卵を瓶につめ、湯煎して固めた卵料理。元朝で14世紀後半に成立した家庭百科全書『居家必用事類』にみえる。
鉄製あるいは陶製の容器に火薬を詰めた火器。中国の金朝がモンゴル軍を相手に使用したことが史料上の初見とされる。のちにモンゴル軍にも取り入れられ、バグダード包囲戦や日本への侵攻時にも同類の火器が用いられている。
沖縄本島北部の本部半島から北に約41kmに位置する島。琉球の第一尚氏王朝の初代尚思紹の父鮫川大主の出身地とされる。琉球と日本を結ぶ南島航路の中継点であり、那覇から伊平屋島を経て北北東に進んで日本に至る航路が16世紀の中国では知られていた。
出雲国で食べられた蕎麦切。のちの「出雲そば」として知られる。寛文六年(1666)には、出雲国の松江で蕎麦切が振舞われたことが当時の記録にみえる。
岡田山1号墳(島根県松江市大庭町)から出土した儀仗刀。鉄地に銀象嵌の施された装飾付大刀であり、刀身に「額田部臣」を意味する銘がある。6世紀後半のものと推定されている。
弥生時代の武器型青銅器。寛文五年(1665)に出雲大社の東方約200メートルにある命主社の背後の大石の下(真名井遺跡)から出土したと伝えられる。同じく弥生時代(紀元前2世紀〜紀元1世紀)のものとみられる翡翠の勾玉も一緒に出土している。
広島県竹原市の竹原市横大道8号墳から出土した、ほぼ完形の平底無台鋺。ただし底部付近が一部欠損している。7世紀中葉のものとみられ、日本列島産鉛が材料として用いられている。なお銅鋺は、仏教儀式で使われた道具。
徳之島東岸の港町。現在の鹿児島県大島郡徳之島町亀徳。薩摩と琉球を結ぶ航路の寄港地の一つ。慶長十四年(1609)五月には琉球侵攻中の島津軍が寄港し、琉球王府から派遣されていた高官を捕縛している。
奄美大島南部の焼内湾にあった湊。現在の鹿児島県大島郡宇検村宇検。宇検湊を含めた焼内湾内にある名柄湊・佐念湊などの湊の総称として焼内湊とも呼ばれる。16世紀、このエリアには琉球王国により地方行政単位として「屋喜内間切」が設置されていた。
奄美大島南西、大島海峡の最西端に位置する港町。薩摩と琉球を結ぶ航路の寄港地であり、慶長十四年(1609)に琉球へ侵攻した島津軍も西古見に寄港している。
屋久島西方12キロメートルに位置する島。屋久島・種子島とともに大隅諸島を構成する。トカラ列島を越えて奄美大島に至る航路では、風待ちの港として重要だった。なお中世の史料には「永良部島」としてみえることが多い。天保十四年(1843)に完成した…