ササン朝の版図だったメソポタミア・イラン地域で製作されたガラス製品。ユーフラテス川以東に分布するササンガラスはソーダ源に植物灰を用いてあり、マグネシウムやカリウムに富んだ組成を示す。ユーラシア東西交易により中国、そして日本にももたらされており、日本では古墳からの出土のほか、正倉院に伝世品が所蔵されている。
ガラス生産はじまりの地
人工素材としてのガラスが最初に実用化されたのは北メソポタミア地域とされる。考古学的に確認できる最古のガラスは北メソポタミアのテル・ブラク出土の管状ガラスで、紀元前2350〜紀元前2100年頃に年代付けられている。
そして紀元前16世紀頃には、コア技法(粘土芯に熱で溶けたガラスを巻き付けて器物を成形する技法)やモザイク技法(ガラス小片を加熱溶着させて器物とする技法)などを用いてガラス容器が作られるようになった。最古のガラス容器も北メソポタミアで製作されたが、現存する遺品はきわめて少ないという。
ただし紀元前1千年紀半ばにはメソポタミアにおけるガラス生産は停滞し、その中心は東地中海周辺やエジプトに移ったと考えられている。すでに紀元前8世紀末、アッシリア王サルゴン2世の銘をもつ最古の無色透明ガラス容器は、フェニキアで作られた可能性が高いとされる。
その後、メソポタミアを含む古代オリエントはアケメネス朝( 紀元前550年〜紀元前330年)の支配下となる。アケメネス朝美術様式を示すガラス容器は、地中海周辺地域に分布するナトロン・ガラス組成を示しており、少なくとも素材ガラスは地中海方面から供給されていたと推定されている。
一方で在地的な生産も細々と続いていた。アナトリア東部からイラン西北部に分布する角形小瓶には、当時、高級品として流行したロッククリスタル製品を思わせる無色透明ガラスを巧みに鋳造した逸品や、伝統的な色ガラスとロッド技法(コア技法の一種)を用いるものなどがみられる。
紀元前330年、マケドニアのアレクサンドロス3世の遠征によりアケメネス朝が滅亡。メソポタミアはセレウコス朝を経てアルサケス朝パルティアの支配下となる。このアルサケス朝期、メソポタミア・イラン地域で大規模なガラス製造が行われていた形跡は確認されていない*1。
ササン朝の成立とガラス生産
紀元後3世紀、メソポタミア・イラン高原にササン朝が成立する。同朝はユーフラテス川以東で初めてガラスの大量生産を行った国家とされる。
ササン朝を興したアルダシール1世(224〜241)は、アルサケス朝パルティア時代の中心だったセレウキアの対岸に新都ヴェー・アルダシールを造営。その遺跡の居住域から、ササン朝前期(3〜4世紀)のガラス容器8000点超が出土している。出土ガラスの大部分は比較的簡素なつくりの壺形容器であり、精製器種としては碗形容器がみられる。
ササンガラスにカット装飾がみられるのは4世紀前半からで、4世紀後半には円形・瓜型を駆使した様々なカット装飾が見られる。この中には日本の新沢千塚126号古墳(奈良県橿原市)で出土した切子括碗も含まれている。これらの器形・装飾技法にはローマンガラスに先行事例があり、ササンガラスはその初期から東地中海周辺地域と深い関係があったことが指摘されている。
同時期の墓地遺跡では、北メソポタミアのテル・マフーズ(キルクークの北65キロ)、ヨルガン・テペ(キルクーク近郊)出土ガラスの様相もほぼ同様とされる。またイラン北部ギーラーン州のハッサニ・マルレ7号墓からは3世紀後半〜4世紀にササン朝領域内で製作されたとみられる突起装飾碗が出土している。
ササン朝後期(6〜7世紀)から初期イスラーム時代のガラスの器種組成や変遷は、クテシフォン周辺のテル・バルーダに見ることができるという。器形は小型の壺型容器が見られなくなり、イラン北部出土例としてよく知られる碗形・鉢形容器・台付杯とともに扁平な杯が現れる。円形切子などカット装飾は7世紀以降次第に見られなくなり、かわって型吹装飾が一般的になるとされる。
イラン北部への流通
イラン北部カスピ海南西岸のギーラーン州では数百点を超すササン朝のカットガラス碗が出土したと推定されている。日本の正倉院にはササンガラスとみられる円形切子碗が伝わっているが、これと同じタイプのカットガラス碗の多くは同地で出土したといわれる。
また同地出土のササンガラスの傾向として、メソポタミア出土報告例と比べ、器壁の厚い精製器種であることが指摘されている。さらに、前述のようにササンガラスの突起装飾碗が見つかっていて、類例も確認されているが、メソポタミア地域での出土報告はないという。
一方でカスピ海南西岸で出土した紺色斑点文をもつガラス容器は、蛍光X線分析によりナトロン・ガラス組成のローマンガラスであると判断されている*2。イラン北部にはササン朝の中心である中部メソポタミアで製作されたガラスのうち特定の器種(碗型容器)だけが選択的に運ばれ、またササンガラスだけでなく地中海方面で作られたローマンガラスも搬入されていたことがうかがえる。
これらササンガラスやローマンガラスが流通したイラン北部は、北方のコーカサス方面との関連が深かったことが指摘されている。正倉院タイプのカットガラス碗は、アゼルバイジャンやアルメニアで複数が出土しているとされ、さらに北方の黒海周辺では紺色斑点文をもつガラス容器が多数出土しているという。イスラーム期以前、コーカサス方面とイラン北部をつなぐ交易ルートが活発に活動していたと推測されている。
西晋とオアシスルート
魏晋南北朝時代の中国には多くのササンガラスがもたらされており、当時の墳墓等からみつかっている。
西晋期(265〜316)の北京西郊華芳墓と湖北鄂城五里墩M121号墓から各1点のガラス器が出土しており、いずれも前期ササンガラスの括碗(首が狭くなるタイプの碗)とみられている。なお湖北鄂城五里墩M121号墓の出土器は、その装飾が日本の新沢千塚126号古墳(奈良県橿原市)の出土器の切子装飾と似ており、類型品と考えられている。
西晋の詩人潘尼は「瑠璃碗賦」で西方のガラス器の美しさを称え、ガラス器が困難な道のりを遠く旅するところを、以下のように詠んでいる。
流沙の絶嶮なるを済(わた)り、葱嶺(パミール)の峻危たるを越ゆ。その由来疎遠なり
西晋の時代、ササンガラスを含む西方ガラス器が西域のオアシスルートを通って中国に運ばれていたことがうかがえる。
江南の海上貿易
316年に西晋が滅びると、西晋の皇族である司馬睿によって江南地域に東晋が建国される。東晋(317〜420)の墓約10基からと、東晋から禅譲を受けて成立した南朝宋(420〜479)の墓1基から西方ガラス器が出土している。
東晋期のガラス器は、不明なものを除くと杯と碗(鉢)であり、碗は首の細くなった括り碗がほとんどとされる。ガラス器は透明度が高く、器壁は非常に薄手で、ほぼすべてカットによる装飾がなされているという。
これら墳墓から出土したガラス器のうち、分析によりローマンガラスであることが分かっている器もあるが、前期ササンガラス器である可能性が高いものも2点挙げられている。また南朝宋の劉宋墓(439年没)から出土したガラス器は、中期ササンガラス器とされる。
なおこれらガラス器は、広州出土の一例を除きすべて建業(江蘇省南京)周辺の墳墓から出土している。建業は三国時代の呉の都であり、東晋や南朝の各王朝もみな建業に都をおいていた。
建業を中心とする江南地域は、海上交易が盛んだった。西晋時代の文学者左思は、かつての三国(魏・呉・蜀)のそれぞれの都を描写した「三都賦」の中で、呉の都(建業)の賑わいを「果実も布地もひっきりなしで、琉離(ガラス)に瑪瑙も舶来する」と詠んでいる。
東晋や南朝の王朝も、南海の扶南やチャンパ、さらにはインドのグプタ朝と海路で通交しており、ササンガラスなどのガラス器は海上ルートで建業にもたらされた可能性が指摘されている*3。ただし南朝宋の劉宋墓出土例以降、南朝では目立ったササン朝や東ローマのガラス器や金属製品がみられなくなる。
その理由は不明だが、この頃強大化したササン朝はペルシア湾、さらにはインド洋周辺地帯、紅海のインド洋への出口といった地域を掌握。エチオピアのアクムス王国やローマの商人はインド洋交易から撤退している。一方で後述のように中国の北朝時代の墳墓からはササンガラスやローマンガラスが出土している。このことから、ササン朝の交易活動は内陸ルートが中心であったとする見方もある。
北朝と隋・唐
江南の東晋・南朝と対峙した華北の五胡十六国・北朝の墳墓からもガラス器が出土している。
北燕の馮素弗墓(415年葬)、北魏の封魔奴墓(483年葬・512年改葬)、北魏祖氏墓からは、浅碗、碗、杯、鴨形水注など様々な器形の後期ローマンガラスとみられるガラス器が出土。南朝で出土しているカット装飾などを主体とする括り碗と、その様相が大きく異なる点が指摘されている。
一方、より時代が下るとローマンガラス器は見られなくなり、ササンガラス器が登場する。平城(現在の大同)の北魏の墓から少なくとも一点、固原の北周の墓から二点、切子碗が出土している*4。器壁を厚く吹いた器にカットによる装飾を施すササンガラスで、北魏のものは中期ササンガラス、北周のものは後期ササンガラスとされる*5。
続く隋唐時代の遺跡からも ササンガラス器は出土。特に北周から隋・初唐の時期に多数搬入されていたことが分かっている。
唐代の初期には末期ササンガラス器がもたらされた。陝西省西安市南郊何家村窖蔵から出土した末期ササンガラス器は、連環文を貼り付けたものである。平底の無色透明な杯で、胴部に円環文を三個繋げた装飾が八列並んでいる*6。なお日本の正倉院に伝来する紺琉璃杯も貼付円環文の末期ササンガラスとされる*7。
末期ササンガラスの次にはイスラームガラス器がもたらされるようになる*8。陝西省扶風県法門寺地下宮殿からは8〜9世紀頃の皿・瓶・杯・茶托付茶碗など、20点ものイスラームガラス器が出土している。
これらガラス器は、黒海周辺や南ロシアを西方の起点とする草原ルート、中央アジアのオアシス都市を結ぶオアシスルートというユーラシアの東西を結ぶ二つの交易路からもたらされたと推定されている。北魏の繁栄を伝える『洛陽伽藍記』において、北魏の河間王琛の豪奢な生活をあらわした文中に以下の記載がある。
琛は王族たちと宴会する時は、いつも様々な宝器を並べ立てた。…水晶の鉢、瑪瑙と瑠璃の碗、赤玉の杯など数十個があった。…どれも中国の産ではなくて西域から来たものばかりだった
北魏でも宝器として瑠璃(ガラス器)が珍重されていたこと、そして西域から招来されたとされていたことがうかがええる。
日本出土のサザンガラス
日本では古墳時代と考えらえる遺跡からガラス器とその破片が出土している。出土例は4件あり、新沢千塚126号墳(奈良県橿原市)出土のガラス碗とガラス皿、伝安閑天皇陵古墳(大阪府羽曳野市)出土切子碗、沖ノ島8号祭祀遺跡(福岡県宗像市)出土切子碗破片がある。このほか、古墳時代と考えられているものとして、上賀茂神社本殿北方御前台で採集された二重円形切子碗の破片がある。
新沢千塚126号墳は5世紀後半頃と考えられている長方形墳で、薄手の円形切子ガラス碗と、紺色の素文ガラス皿*9とが、皿の上に碗を載せた状態で出土したという。
切子碗は吹きガラスで、前期ササンガラスと推定されている*10。括り碗とよばれる形態で、非常に薄く、胴部には円文がカットされている。この薄手の切子碗の類例はイランやイラクなどササン朝領内の遺跡から多数出土しており、前述のように西晋前期の湖北鄂城五里墩M121号墓からも出土している。
伝安閑天皇陵古墳出土切子碗、沖ノ島8号祭祀遺跡出土切子碗破片、上賀茂神社採集二重円形切子碗片は、いずれも後期ササンカットガラスとみられている。
伝安閑天皇陵古墳出土切子碗は色調は淡褐色透明、半球形の厚手の切子ガラス碗であり、後期ササンガラスの切子碗とされる。このガラス器は正倉院の白瑠璃碗と材質・寸法・各段の切子数、そして切子面の大きさまでほぼ一致しており、同一工房で同時期に作られた可能性が高いという。
沖ノ島8号祭祀遺跡から出土した切子破片は浮出切子で、このタイプはササン朝後期の層があるメソポタミアのキシュ遺跡からの出土が確認されている*11。 なお沖ノ島8号祭祀遺跡は6世紀後半頃の祭祀遺跡であり、この周辺からはガラス破片を含めて、多数の舶載品が出土している。
円形や浮き出し、二重円文の切子を施した厚手のササンガラスは、ササンガラス器の編年の中で後期(6世紀)にあたり、前述のように北周など中国の北朝や隋代の墳墓からも出土している。この時期のササンガラスは、製作時からあまり時間をおかず東アジアに渡り、さらに日本へともたらされていたことが分かる。また後期ササンガラスにみられる浮出し(円文を浮出すようにカットした加工)などの高度なカット加工を施したガラス器には、威信財としての側面があった可能性が指摘されている。
参考文献
- 四角隆二 「ササン朝ガラスとシルクロード交易」(MIHO MUSEUM・岡山市立オリエント美術館 編 『古代ガラス-色彩の饗宴-』 MIHO MUSEUM 2013)
-
小寺智津子 『ガラスの来た道 古代ユーラシアをつなぐ輝き』 吉川弘文館 2013

出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/J-37204?locale=ja

出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/TJ-5900?locale=ja

出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/J-36665?locale=ja
ササン朝ペルシアのカットグラス(切子ガラス)。6世紀の安閑天皇のお墓として伝わる古墳から、江戸期に見つかったとされる

出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/TJ-5808?locale=ja

世界遺産『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群デジタル・アーカイブ https://www.munakata-archives.asia/frmSearchHoukenhinDetail.aspx?id=36&langid=
復元すると、上段に9個、下段に7個の浮出の円文をめぐらしたカットグラス碗となる。イラン北部、ギーラーン地方を中心に同巧品が出土しており、ササン朝ペルシアから伝来したササンガラスとみられている。

出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/TJ-4865?locale=ja
側面には円形と長円形の切子が施されている
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システムhttps://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/TJ-5929?locale=ja

新疆ウイルグ自治区クチャ県シムシム石窟出土
吹きガラス技法で製作された高脚杯で、杯と脚部を別々に作り、溶着している。側面には円盤状のガラスを互い違いに上下二段に合計12枚貼り付けて、装飾としている。
末期ササンガラスまたは初期イスラームガラスと考えられている。後期ササンガラスにみられる、円文を浮出すようにカットした浮出し切子は大変手間がかかるため、円盤を貼り付ける装飾で代用した可能性が考えられている。
写真は「世界遺産大シルクロード展」にて撮影
*1:メソポタミアの主要都市だったハトラやセレウキア、クテシフォンの出土品は、地中海周辺からの搬入品と判断されるような器形のガラス容器が多くを占めているという。セレウキア出土ガラスの蛍光X線分析結果によれば、ほとんどが地中海周辺に由来するナトロン・ガラスであったととされる。器形は長頸・短頸の小瓶が多く、オリーブオイルや香油の容器として搬入されたものと考えられている。
*2:パレスティナでは4世紀のガラス工房趾で多数の紺色斑点文容器が出土しており、東地中海周辺地域で製作された容器がイラン北部へ搬入されたと考えられている。
*3:広東省の南朝斉の時代の墓からササン朝のペーローズ銀貨が出土しており、ササン朝と南朝との間に交渉があったことがうかがえる。
*4: 北魏の最初の都である平城(現在の大同)の墳墓からはササン朝の銀器も多く出土している。
*5:特に北周の寧夏固原李賢墓から出土した浮出円形切子碗は、後期ササンガラスを代表する器形の一つとされる。
*6:この埋蔵品は長安城内に埋蔵された壺から出土したもので、約270点の金銀器と、ビザンチン銀貨・和同開珎など外国の貨幣と中国の貨幣などと共にみつかっている。
*7:統一新羅時代の慶尚北道漆谷郡松林寺五重磚塔基壇出土の緑色円環文舎利杯も貼付円環文の末期ササンガラスとされる。
*8:実際には末期ササンガラス器と初期イスラームガラス器は区別が難しいという。
*9:ガラス皿は高台の付いた浅皿で、吹き技法によって作られており、その製作技法や類例から3〜5世紀頃のローマンガラスと考えられている。
*10:類型品の製作年代は3〜4世紀頃とされている。
*11:浮出切子は器壁が厚いガラス器をカットによって浮出しの装飾をほどこすもので、ササンガラスの工房に高度な二次加工技術があったことがうかがえる。