戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

伝安閑天皇陵出土円形切子碗 でんあんかんてんのうりょうしゅつどえんけいきりこわん

 6世紀頃にメソポタミアササン朝で製作されたと推定されるカットガラス碗。安閑天皇陵とされる高屋築山古墳(大阪府羽曳野市)から出土したとされる。正倉院蔵の白瑠璃碗と極めて類似していることでも知られる。

ササン朝後期の円形切子碗

 高屋築山古墳(伝安閑天皇陵)出土の円形切子碗は、色調は淡褐色透明、半球形の厚手の切子ガラス碗で、大きさは高8.6×口縁部径11.9×底部径3.9cm。胴部には四段に各22個ずつの円文カットを施しており、亀甲文状を呈している。底部には7つの円文、底に大きな円文を1つ施しており、後期ササンガラスの切子碗とされる。

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 奈良県正倉院には、この切子碗ときわめて類似したガラス碗が所蔵されている。すなわち正倉院の白瑠璃碗(高8.5×口縁部径12×底部径3.9cm)であり、材質・寸法・各段の切子数、そして切子面の大きさまでほぼ一致している。同一工房で同時期に作られた可能性が高いという。

 正倉院タイプのガラス碗は、ササン朝後期(6世紀)に年代づけられ、その製作地はササン朝の政治的中心である中部メソポタミアあるいは北部メソポタミアと推定されている。ただ、面カットがきれいに亀甲状を呈する資料は、メソポタミアではキシュ(イラク共和国バービル県)出土の数片しか知られておらず、正倉院白瑠璃碗が特別な円形切子碗であったことがうかがえるという。

 一方で同じくササン朝の領域だったイラン北部カスピ海南西岸のギーラーン州では、数百点を超すササン朝のカットガラス碗が出土したと推定されている。またイラン北方のアゼルバイジャンアルメニアでも、正倉院タイプのカットガラス碗が複数が出土しているとされる。これらの地域では正倉院タイプの円形切子碗が威信財として扱われていた可能性が指摘されている。

安閑天皇

 このササン朝後期の円形切子碗は、安閑天皇陵として伝わる高屋築山古墳(大阪府羽曳野市)から出土したとされる。同古墳は独立丘陵である高屋丘陵に築かれた前方後円墳であり、大きさは墳丘長122m、後円部径78m、前方部幅100m、高さ12.5m。出土遺物の示す年代や古市古墳群の立地状況から、6世紀前半の築造が想定されている。

 安閑天皇の陵について、『日本書紀』には「葬天応于河内舊市高屋丘陵」とあり、『古事記』も「御陵在河内之古市高屋村也」とする。そして10世紀の『延喜式』には以下のようにある。

古市高屋丘陵 勾金橋宮御于安閑天皇在河内國古市郡兆域東西一町南北一町五段陵戸一烟守戸二烟

 いずれの記録においても安閑天皇陵は河内国の「高屋」にあったとされており、この場所は現在の「大阪府羽曳野市高屋」に比定されている。

 室町戦国期になると、高屋丘陵全体を利用して「高屋城」が築かれる。この高屋城の本丸部分が現在の安閑天皇陵であり、墳丘測量図からも城郭として利用されていた痕跡がうかがえるという。なお軍記物『足利季世紀』には、城主である畠山稙長が安閑天皇ノ廟であることを恐れて、本丸ではなく二の丸に住んでいたことが記されている*1

江戸期の文献にみえる伝来の経緯

 伝安閑天皇陵出土円形切子碗が納められていた黒漆塗りの円筒形容器の蓋表には「御鉢」と金蒔絵で記されており、裏面には同じく金蒔絵にて、次のような記述がある。

寛政八年三月 良辰奉 長吏宮仰書銘 弘法大師流入木 道四十二世 書博士 加茂保考 印

 さらにこの円筒形容器を納めた外箱の裏底面には、「神谷家 九代 源左エ門 正峯 西琳寺寄進」と記されている。

 円筒形容器と外箱の記述からは、この切子碗は神谷家九代の源左衛門によって古市の西琳寺に寄進され、寛政八年(1796)三月に長吏宮(盈仁親王)より「御鉢」の銘を賜ったとされていることが分かる。

 江戸後期の文人である大田南畝が安永四年(1775)から文政五年(1822)にかけて執筆した随筆『一話一言』には「河内古市玉碗記」として、以下のように記されている。

(前略)明徳の役に将軍足利氏の陪臣畠山某河内国を取ける時、此地に城を築く。高屋城といふこれなり。其後天正の始、将軍義昭平信長と挑戦し、義昭の軍破れて城終に亡ぶ。兵革の後里の民此御陵をあばきしにや、此の里の長神谷といふ者の奴僕、土中より玉盌一を獲たり。其家に納ること百余年にして、終に西琳寺に寄附す。
(中略)こたび平安の茶博士養壽院のぬし宗達てふ人を介として西琳寺住持僧慧雲上人此殿にまうのぼりて、我三山検校三井長吏聖護院二品賜牛車盈仁親王に謁しまいらせ、携来し玉盌及び文書あまたみせたてまつりき、やがて其筥のうへに金泥をもて御鉢の二字を第せられてかへし賜りぬ(後略)

 これによれば、天正初年に織田信長が将軍足利義昭方の高屋城を攻略した際、民衆によって安閑天皇陵(すなわち高屋城本丸)があばかれ、里長神谷の奴僕が土中から「玉盌」(切子碗)を見つけたのだという。その百年後(1670年代か)、切子碗は神谷家から西琳寺に寄附され、さらにその後*2、西琳寺住職が盈仁親王に披露し、「御鉢」の銘を賜ったとする。

 なお「玉盌」(切子碗)の出土時期について『一話一言』には天正初年と記されているが、一方で元禄九年(1696)刊行の『前王廟陵記』に以下の記述がある。

或曰。今高屋村城山。是也。明應中。畠山尚慶築城。或曰。近年土民発掘陵。得古代器物等。

 すなわち元禄九年(1696)の少し前、高屋城跡を地元民が発掘して「古代器物等」の出土品を得たのだという。この「古代器物等」の中にササン朝の切子碗が含まれていた可能性があるともされる。

参考文献

白瑠璃埦(伝安閑天皇陵出土円形切子碗)
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/J-36665?locale=ja
ササン朝ペルシアのカットグラス(切子ガラス)。6世紀の安閑天皇の陵墓として伝わる古墳から、江戸期に見つかったとされる

安閑天皇陵出土円形切子碗を納めた円筒形容器の蓋表
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/J-36665?locale=ja 

安閑天皇陵出土円形切子碗を納めた円筒形容器の蓋裏面
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/J-36665?locale=ja 

安閑天皇陵出土円形切子碗を納めた容器の外箱の裏底面
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/J-36665?locale=ja 

*1:『足利季世紀』には「高屋ノ城安閑天皇ノ御廟ナリ然レハ要害ヨケレハトテ城ニ築立ラレケレトモ本城ニハ恐レテ畠山殿モニノ丸二住シケル」とある。

*2:円筒形容器の記載を信じるなら寛政八年(1796)三月のこととなる。