飯梨川(富田川)中下流域にあった富田城の城下町。中世、出雲守護京極佐々木氏やその守護代で後に戦国大名となる尼子氏の本拠が置かれ、出雲国の政治的中心の一つとして栄えた。飯梨川(富田川)と中海を介し日本海水運にもつながった。また陸路でも南の山陽路、東の伯耆国、西の松江方面にも通じる軍事・交通の要衝でもあった。
中世富田城下町
中世富田城下町に関する史料のうち、物流拠点と思われる市場地名が見られるものがいくつかある。
文明八年(1476)五月十七日、出雲守護京極政高は、出雲能義郡土一揆の蜂起に対して「富田要害」(富田城)を拠点に鎮圧にあたった守護代尼子清定に感状を発給。この中で五月二日に「三日市」において合戦があり、多久三郎左衛門尉と野伏一人が傷を負う戦功を挙げたことが記されている(「佐々木文書」)。
岩屋寺(島根県仁多郡奥出雲町)院主の快円の日記には、大永五年(1525)五月に「富田ノ市ハ」で仏具を購入したことがみえる(「岩屋寺快円日記」)。また毛利氏による富田城攻めが行われていた永禄八年(1565)四月、城外で「市庭面合戦」があり、鉄炮で敵を討った鉢屋掃部を尼子義久が賞している(「蒲生家文書」)。
このうち、文明八年五月二日に合戦があった「三日市」については、明治初年の地籍図で植田村と中嶋村の境にあった「字三日市」に比定されている。中世富田城下町からは北に少し離れた場所にあるため、城下町の周縁ないし郊外に位置して、間接的な影響関係にあった物流拠点であったと推測されている。
前述の明治初年の地籍図には、古川村に「字市場」「字紅屋」といった地名もある。この辺りが富田城下町の北東側の境界であった可能性が指摘されている。なお「紅屋」という地名との直接の関連は不明ながら、後年の寛文八年(1668)「広瀬町屋敷帳」の魚町には「べにや 長右衛門」という人物がいたことが記されている。
一方で新宮村の町帳村境にも「後谷元市前」という地名がみられる。ここは新宮谷の入り口にあたり、また古川村から才の峠を越えて来る道が交錯する部分にあたっている。富田城下町の南東側の境界に位置した時期があったとも考えられるという。
このほかに、富田川河床遺跡の出土品からは、中世に遡る遺物の出土地が特定の場所に集中することが指摘されている。すなわち16世紀の遺構が4つ確認されているが、その時期のものは新宮橋上流附近に集中している。
以上のことから、富田城下町に直接的に関連するとみられる物流拠点は、中世出土遺品の多い新宮橋上流附近、古川村市場地名附近、新宮谷入口付近などを想定することができ、おおむねそれらに囲まれた範囲内に、城下町が所在した可能性があるとされる。
大道と尼子屋敷
正保二年(1645)の「正保出雲国隠岐国絵図」には、「富田古城」の北西側、富田川(飯梨川)東岸にあたる場所に、「町帳村・山帳村」と記されている。周辺の村々との位置関係から、「町帳村」「山帳村」は、富田城の菅谷口・御子守口の周辺など、中世城下町の所在地として最も可能性の高い場所に位置していたと考えられている。このうち「町帳村」は、延宝二年(1674)「能義郡富田町帳御検地帳」によれば、正式には「富田町帳」とも称されていたことが知られる。
上記の旧町帳村と対岸の飯梨川両岸には、現在に至るまで特徴的な短冊形地割が残されている。このエリアについて、明治初年の地籍図には「代地」「米成」「的場」「兼尾」「廣嶋」「大道添」「大道端東」などの記載がみえる。
そして富田川河床遺跡から確認された道筋の一部は、こうした短冊型地割や現在の道筋とも関連しているようにみえることが指摘されている。さらに、それら地割や道筋の基軸として、菅谷口へ至る道筋が重要であったことが推測されており、それは前述の地籍図に「大道」と記された道であることが分かるという。
その道沿いには、寛文八年(1668)から明治三十五年(1902)まで城安寺があったが、寛文八年「富田庄城安寺領並地之替地申之改帳」には、当時そこが「尼子屋敷」と称されていたことが記されている。尼子氏滅亡から約100年が経過していたが、菅谷口へ向かう「大道」に面して尼子氏の館があったと認識されていたことが分かる。
富田城周辺遺跡からの出土品と日本海水運
富田城周辺の入り込む谷筋には尼子氏の一族・家臣団の館が広がっていたとみられる。新宮谷大畑地区では、建物・庭池・土坑が発見され、土坑からは多くの陶磁器類が出土。輸入陶磁器としては、青磁の盤・碗・皿、白磁の皿・酒杯、青花(染付)の皿・酒杯、褐釉の鉢・四耳壺などが含まれていた。備前焼には、徳利・水指・双耳壺・擂鉢などがある。四耳壺(用途はいわゆる葉茶壺か)や備前水指などは茶の湯の道具として用いられたとみられる。
また菅谷地区で発見された丸瓦は、朝鮮の李朝のものに類似しており、製品の輸入や技術の導入が考えられている。富田川河床遺跡からも15〜16世紀の製作と推定される懐中用の小型の柄鏡が出土しており、朝鮮半島から来た人が日常品として携えていたことが想定されている。なお明治初年の石原村地籍図には、「唐人谷」という地名が残されている。
このほか、富田川河床遺跡の16世紀中頃から後半の遺構からは、多数の中国・朝鮮陶磁器が出土。また少数ながらタイ製四耳壺も出土している。このことは富田城下町が中海を介して日本海水運とつながっていたことを明確に示している。
富田は安来津や八幡津(馬潟)など中海沿岸の諸港まで8〜10キロメートルの距離に位置している。このため、尼子氏の勢力拡大にともない、出雲国東部の諸港湾と密接な関係にあった富田に経済的隆盛がもたらされたと考えられている。
尼子氏滅亡後
永禄九年(1566)十一月、富田城に籠城していた尼子義久が毛利氏に降伏し、出雲尼子氏は滅亡した。
毛利氏時代の富田城は島根半島東部周辺海域や出雲・伯耆国境地帯を押さえる軍事拠点として重要であったが、一方で尼子氏の時代に比べると、政治拠点としての役割は大きく後退したと考えられている。富田城関連遺跡の出土品について、16世紀後半に威信財が減少している背景には、この富田城の役割の変化があったともされる。
さらに天正十九年(1591)以降は出雲国2郡・伯耆国3郡・隠岐国が吉川広家の一円支配領となり、富田は吉川領の本拠地という位置づけとなる。ただし、広家は米子城と米子城下町建設を進めて本拠の移動を図っており、富田の政治的中心機能はさらに後退していったことが想定される。
関ヶ原合戦後の慶長五年(1600)、出雲・隠岐に入部した堀尾氏は、当初は富田城を本拠としたが、慶長十二年(1607)頃から同十六年(1611)にかけて松江城と城下町を建設して本拠を移転。富田城はその後も支城として機能していたとみられるが、やがて慶長二十年(1615)の一国一城令により破却されたと推測されている。
堀尾氏の本拠が富田から松江へと移転するにともない、堀尾氏家臣団屋敷の大半は富田城下町から引き払われたとみられる。また松江城下には富田から移転してきたという伝承を持つ寺社が少なくないことから、多くの寺社や商職人たちも松江城家町に移ったことが推定されている。
一方で富田城下町は、すべて松江に移転したわけではなく、一定部分は引き続き町場として存続した。しかし寛文六年(1666)の大洪水によって富田川(飯梨川)の流路が大幅に変化し、町の大半が流失・水没したという。当時の富田は、松江松平家当主松平頼隆の弟である松平近栄が支配していが、近栄は翌寛文七年(1667)から町の移転事業を開始し、寛文八年(1668)には富田川西岸に新たな陣屋町(広瀬町)を建設した。
上記の寛文六年(1666)の大洪水の際に河床に埋もれた富田城下町の遺跡が富田川河床遺跡であり、道路・建物・井戸・墓地などの遺構や各種の大量の遺物が出土している。河床遺跡という環境もあって、木製品類が豊富な点も特徴の一つで、漆椀・箸・柄杓・下駄・鍬先・羽子板などがある。また瓦・石塔・石臼・砥石・硯・和鏡・笄(こうがい)・刀子・小柄・鋏・匙なども出土している。
江戸初期の富田城下町
江戸初期の富田城下町は富田川東岸に位置していたと推定される。当時の富田城下町について、大洪水以前に作成された周辺村々の検地帳や、大洪水後に富田町の屋敷地が広瀬町に引き移される際の文書等からうかがうことができる。堀尾氏が本拠地を松江に移した後も、200軒を下らない規模の町場が存在したとみられる。
このうち、大洪水後に富田町を広瀬町へ移転する際の帳簿である寛文八年(1668)「富田町引料米帳」には、住人たちの所属する個別町名が記されており、「かや(茅・萱)町」「上町」「下本町」「鍛冶町」「魚町」「清水町」があったことが分かる。大洪水以前の検地帳からは、「本町」「中町」「下町」「板屋町」「ひきゝ町」「馬口郎町」「後町」「六丁目」などの名称も確認できる。
また宝暦十二年(1762)「広瀬町酒場改帳」によれば、田中屋と面髙屋は天正年間(1573〜1592)から、井塚屋は慶長年間(1596〜1615)から、それぞれ酒商売をしていたと記載されている。寛永三年(1626)「富田庄内廣瀬村御検地帳」には富田町住人と思しき人物の名が多く記されているが、その中に「田中ノ宗五郎」「面高屋 治兵衛(次兵衛)」「井つか 弥右衛門」の名を見つけることができる。
17世紀の富田町には多数の金属加工職人も確認できる。たとえば寛永三年(1626)の「富田庄内廣瀬村御検地帳」「富田庄之内牧谷村御検地帳」には、「ときや(研屋)」「なへ屋」「かたな」「かぢ」などの職名がみられる。寛文八年(1668)「広瀬町屋敷帳」には、鍛冶屋18(鍛冶町)、鍬ふろ屋2(板屋町・魚町)、とき屋1(魚町)、灰吹屋2(板屋町・本町)、鍛冶大工(下町)、きやし1(清水町)がみられ、これらのほとんどは富田町からの移住者であると考えられている。
なお富田川河床遺跡からは、17世紀初頭の遺構からは錬鉄2本・火縄銃1点が、17世紀中頃の遺構から錬鉄1本が出土。江戸初期の鍛冶炉遺構もみつかっている。
関連人物
関連交易品
参考文献










堀尾吉晴は羽柴秀吉に仕えて活躍した武将。慶長五年(1600)、家督を譲っていた子の忠氏とともに富田城に入城し、忠氏が急死すると孫の忠晴の後見として政務に復帰した。松江城の築城と城下町の整備を進め、慶長十六年(1611)に死去。遺骸は遺言により富田に葬られたという。

神亀三年(726)創建といわれる古刹。もとは山佐村の高気山岩倉平にあったが、文治三年(1187)に富田山麓の現在地に移ったという。




安来市加納美術館 企画展「古備前と城下町・広瀬」にて撮影

三太良遺跡は富田城下の新宮地区にある城館跡。備前焼の壺に小型の中国陶器などが格納され、一番上には、天目茶碗が伏せて置かれていた。備前焼はかたくて頑丈であるため、大切なものを収納するために使われていたとみられている。
安来市加納美術館 企画展「古備前と城下町・広瀬」にて撮影

安来市加納美術館 企画展「古備前と城下町・広瀬」にて撮影


富田川河床遺跡の第四遺構面から出土 時期は尼子氏時代の16世紀後半
掘立柱建物跡の土間に6個が埋まっており、酒や味噌などの食料や、藍などの染料の貯蔵用に使われたと推定されている。
甕の大きさは口径58cm、高さ88cm、重量60kgと大きなもので、美保関などを経由して日本海を船で運ばれてきたものと考えられている。
安来市加納美術館 企画展「古備前と城下町・広瀬」にて撮影

第五遺構面は16世紀中頃、第四遺構面は16世紀後半にあたる
安来市加納美術館 企画展「古備前と城下町・広瀬」にて撮影

第三遺構面は16世紀後半にあたる
安来市加納美術館 企画展「古備前と城下町・広瀬」にて撮影

島根県立古代出雲歴史博物館 総合展示室で撮影

島根県立古代出雲歴史博物館 総合展示室で撮影

永禄八年(1565)秋、尼子家臣山中鹿介と毛利方の益田藤兼家臣品川大膳が一騎討をしたところ。鹿介が勝名乗りをあげた富田川の中州は、たびたびの洪水で跡をとどめていない


なお洞光寺はかつては富田川東岸の「兼尾」にあったという。


