安芸国賀茂郡が発祥とみられる渋柿。広島県東広島市西条町寺家の長福寺に原木があったと考えられている。戦国期に安芸国だけでなく石見国や出雲国、伯耆国ほかに伝播。江戸期には「西条柿」として全国に知られた。
「西条柿」の登場
元和五年(1619)、改易された福島正則に替わり、浅野長晟が広島に入部。この時、賀茂郡西条柿奉行が置かれている(「芸藩輯要」)。当時、すでに西条の柿が原産地である現在の東広島市を含む安芸国の大きな産業であったことがうかがえる。
当初は長福寺(現在の東広島市西条町寺家)の柿だけが「西条柿」という固有名詞で呼ばれ、他の接ぎ木した樹は、単に「渋柿」または「つるし柿」と呼ばれていたという。
江戸期、安芸国西条の柿は全国的に知られた。正保四年(1657)刊行の『毛吹草』では、諸国の名物を挙げる中で「安芸に西条柿」と記載。元禄十年(1697)刊行の本草書『本朝食鑑』でも、「芸州西条の干柿が品質第一」と記されている。
長福寺の原木
西条柿のルーツは、広島県東広島市西条町寺家の長福寺の庭先に生じた木であるとする説が有力とされる。江戸初期成立とみられる『長福寺縁起』に、延応元年(1239)、長福寺の僧・良信が、鎌倉の永福寺から貰い受けた柿の種子を境内に播いたとする記述があり、これが西条柿の起源と考えられている。
現在の長福寺址には、柿の原木は既にないが、19世紀初頭までは存在していた。寛政十三年(1801)の『賀茂郡寺家村差出帖』には、長福寺に枯れかかった巨木があり、中は腐りうつろになっていて、高さ8.4メートル、幹周4.8メートルであったことが記されている。その後に枯死したらしく、文政十二年(1829)には古株跡が残されていた(「野坂完三書簡」)。
鎌倉期の貢納
上述の『長福寺縁起』によれば、鎌倉中期、4代将軍・藤原頼経の子が疱瘡を患った際に、長福寺から献上された「西条柿」を食したところ、病が完治したという。これにより、長福寺には寺領が寄進され、以降代々の将軍に毎年「西条柿」を献上したと伝えられている。
文永十一年(1274)、安芸国入江保(現在の安芸高田市吉田町)から京都へ「串柿」2460本を献上した記録がある。串柿は、渋柿を竹串刺しして乾燥させ甘くさせたものであり、果実が大きい西条柿の可能性もあるという。
古木の分布
西条柿の周辺地域への伝播は、各地に残る古木からうかがうことができる。
調査によれば、推定樹齢400~500年の西条柿古木は、広島県内では長福寺のある東広島市だけでなく、安芸高田市高宮町佐々部、三次市作木町、庄原市西城町、安芸太田町辻之河原、廿日市市宮内などに残る。広島県外でも島根県、鳥取県、岡山県他で確認されている。
特に出雲国の富田城周辺や各地の古戦場跡、旧街道筋、お寺などの特定の場所に集中している傾向がみられるという。
また確認された古木全てが、接ぎ木されたものだった。
伝播の背景
上記のことから、戦国期、西条柿が接ぎ木によって中国地方に伝播していったことが分かる。その背景には、毛利氏の領国拡大があったと考えられている。
永禄九年(1566)、毛利氏は尼子氏本拠の富田城を攻略。以後、富田城には安芸国人・天野隆重や毛利元秋(元就の五男)、同元康(元就の八男)らが城主として入っている。人の交流が盛んになり*1、人心が安定した16世紀後半に、西条柿は伝播していった可能性が推定されている*2。
農業技術の普及
12〜13世紀、『斉民要術』(成立は中国北魏時代末期)等の農書が伝来したことにより、京都近郊で農業知識が普及していったという。このことも背景にあってか、『庭訓往来』(応永期成立とされる)では、庭園樹木として樹淡(小練柿)などの果樹栽培が推奨されている。
また明応七年(1498)二月、京都の公家・山科言国は家司の大沢重頼に柿の木を接がせている(『言国卿記』)。接ぎ木の技術も15世紀末には京都で普及しており、16世紀後半には中国地方にも伝わっていたのだろう。