戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

野間 刑部大輔 のま ぎょうぶたいふ

 大内氏家臣。安芸国矢野の国人領主・野間氏の一族か。安芸国安南郡吉浦(現在の広島県呉市吉浦町)を拠点とした警固衆の将とみられる。

大内氏安芸国経略

 大永三年(1523)十一月、安芸国佐西郡五日市(現在の広島県広島市佐伯区五日市)を大内方警固衆が攻撃した際に「吉浦野間刑部大輔」らが討死したことが、厳島神社の社家の野坂房顕の「覚書」に記されている。

 刑部大輔の討死から遡ること7か月前の七月十一日、武田光和らに支援された友田興藤厳島神主を自称し、大内氏に叛旗を翻す。友田興藤は佐西郡桜尾城に入城し、己斐城・石道本城*1も攻略した。

 さらに六月、出雲国尼子経久安芸国に侵入し、平賀氏・毛利氏・吉川氏ら安芸国諸勢力を従えて大内氏の東西条領の主要拠点の鏡山城を陥落させた。これにより、安芸国における大内氏の勢力は大きく後退した。

 同年八月一日、弘中武長を指揮官とする大内水軍が周防国遠崎(現在の山口県柳井市遠崎)を出津(「閥閲録巻137 沓屋勝八」)。十八日、厳島に押し寄せ、友田方の守備兵を退却させて同島を占領した(『房顕覚書』)。

 九月十七日夜、武長指揮下の能美仲次廿日市能美島江田島を襲撃(「山野井文書」)。また十月三日には厳島に攻め寄せた軍勢を能美氏や長崎弥八郎らが撃退している(「萩藩譜録 長崎首令高亮」「山野井文書」)。

 能美氏ら大内氏に味方する安芸国の警固衆も弘中武長の指揮下に入り、反大内氏勢力の牽制や厳島の防衛を担っていた。

五日市の戦い

 そして十一月一日、弘中武長率いる*2大内警固衆は、厳島から出撃して桜尾城後方の友田方拠点の五日市を襲撃した。この作戦には斎藤高利能美弾正忠ら周防・安芸の警固衆も参加しており、前述の通り野間刑部大輔も加わっていた。

 斎藤高利らは五日市で放火を行ったが、友田方の反撃に遭った(「閥閲録巻160 萩町人」)。野間刑部大輔は退却中、船着場において討死した。彼以外にも能美弾正忠・野村民部丞、そのほか主だった者が20人余り討死した(『房顕覚書』)。

吉浦野間氏

 前述のとおり、野坂房顕は覚書で「吉浦野間刑部大輔」と記していることから、野間刑部大輔の拠点は安芸国吉浦(現在の呉市吉浦町)であったと推定される。彼の同族とみられる「野間吉浦彦太郎」は、大永三年(1523)八月時点で安芸国東西条において計200貫を知行していた(「平賀家文書」)。

 刑部大輔は大内方として戦ったが、一方で安芸国矢野を本拠とする野間氏は大内氏と敵対した。大永五年(1525)四月五日、大内氏の指揮官の陶興房佐西郡岩戸(現在の広島県廿日市市佐方)の陣から渡海し、矢野郷に放火(「乃美文書」)。六月、矢野の野間彦四郎が多賀谷武重の仲介で大内氏に降伏している(「閥閲録巻149 多賀谷久兵衛」)。

参考文献

  • 藤井崇『大内義興 西国の「覇者」の誕生』 戎光祥出版 2014
  • 松岡久人「中世末広島湾頭をめぐる大名の抗争と海上権」 (松岡久人 『大内氏の研究』 清文堂出版 2011)
  • 『萩藩閥閲録』第二巻 山口県文書館 1968
  • 広島県史 古代中世資料編5』 広島県 1980
  • 藤田直紀・編 『棚守房顕覚書』 宮島町 1975

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呉市吉浦の眺望。

*1:現在の広島市佐伯区五日市町石内にあった城塞。有井城に比定される。

*2:野坂房顕の「覚書」では、五日市で討死した野村民部丞を「弘中越後守ガ一人」としているので、武長も自身の郎党を率いて五日市攻撃を指揮していたと考えられる。