戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

木練柿 こねりがき

 京都やその近郊で栽培された甘柿。室町期から寺院や公家の庭園で栽培されはじめ、流通量は少ないながらも贈答品として珍重された。16世紀末ごろからは、嵯峨で商品作物としての栽培が本格化したとみられる。

京都特産の甘柿

 室町・戦国期、京都の公家・山科家が贈答品として用いた柿は二種に限定されるという。一つは木練(こねり)、樹淡(きざわし)といった結実甘化の甘柿であり、一つは渋柿ではあるが樹上で熟化させ渋が抜けた熟柿と呼ばれる柿だった。収穫時期は、小練が八月から九月の初秋、熟柿が十一月の晩冬と異なる。また熟柿は小練に准ずるものとされていた。

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 甘味に優れている柿は、砂糖が登場・普及するようになっても貴重な甘味料であった。元禄十年(1697)刊行の『農業全書』でも「柿ハ上品の菓子にて、味ひ及ぶものなし」とされているが、同書ではさらに「其品甚多し。就中京都のこねり、尤も上品なり」としており、小練柿を最上品に位置付けている。

 「こねり」の史料状の初見は、建長六年(1254)刊『古今著聞集』で、「霜をけるこねりの柿」とみえるが*1、ただしこれは初冬期の熟柿を指しているとみられる。

 甘柿としての小練柿は、応永期成立とされる『庭訓往来』の「三月返上」に記述がある。そこには、屋敷の庭に植えるべき樹木として、梅、桃、楊梅、枇杷、柘榴、栗、梨などと共に、樹淡(小練)が挙げられている。果木が庭園樹木として具体的に推奨されており、小練柿の普及当初の栽培形態をうかがうことができる。

山科家の柿贈答

 応永十四年(1407)九月二十三日、山科家は六角菓子供御人から「木子リ」(小練)一籠の貢納を受けた(『教言卿記』)。また寛正四年(1463)七月二十五日、山科家の家司・大沢久守は幕府奉行人・飯尾之種に「木さわし」(樹淡=小練)を贈っている(『山科家礼記』)。六角町は当時京都の繁華な商業地区であり、小練柿が商品として流通していた可能性もあるという*2

 山科家は小練柿を熟柿とともに贈答品として用いた。贈答先は大半が禁裏と幕府奉行人・飯尾氏一族等に限られており、同じく贈答品として用いられた栗と比べて限定的であった。柿の希少性がうかがえる。

 また山科家が贈答に用いた柿は、購入ではなく、全て外部からもたらされた現物を再利用したものだった。『山科家礼記』によれば、山科家に小練柿を贈っていたのは六角や宇治の供御人、山科東庄(山科家の膝下荘園)の地下人、寺家らであった。

小練柿栽培の普及

 中国最古の農書『斉民要術』*3には、「柿有樹乾者」(乾は甘の誤写)の記述があり、樹淡と思われる柿が6世紀の段階で中国に存在していた事が確認できる。

 その後『斉民要術』は9世紀に日本に伝来。さらに12世紀初頭に再度、北宋本として近江坂本の百済寺高山寺に、その150年後に近衛家に伝来した。応永期成立とされる『庭訓往来』で、庭園樹木として樹淡(小練)などの果樹栽培が推奨された背景には、『斉民要術』伝来による京都近郊での農業知識普及があった可能性が指摘されている。

 上記のような経緯から、当初の小練柿の栽培は、京都近郊寺院を中心に行われていたとみられる。山科東庄においては、村の中心的存在である大沢寺が栽培していた(『山科家礼記』長享三年八月十五日条)。また武家故実書の『殿中申次記』には、八朔の日に、西林院、醍醐寺報恩院、鶴原五郎が、各小練一籠を足利将軍に定例進上する慣しが記載されている。

接木による広がり

 明応七年(1498)二月、山科言国は家司・大沢重頼に柿の木を接がせており、これは小練柿と考えられている(『言国卿記』)。続く文亀年間より、山科家の記録には「庭之梢」と称して小練柿を個人同士でやり取りする記述が目立ってくるという。

 言国の孫の言継は、自庭の柿を毎年禁裏や長橋局に進上している。しかし天文十八年(1549)八月十四日の例では、一回の贈答量が1盆30個までで、この時期に至っても、小練柿が希少なものだったことがうかがえる。ただ山科家は前年の天文十七年に膝下荘園である山科東庄を失っており、「庭之梢」の小練柿は、禁裏への貴重な献上品であったと推定される。 

商品作物としての栽培

 この時代、各人の庭には小練柿が植えられ、収穫期には知り合い同志で贈答が取り交わされていたとみられる。永禄二年(1559)八月十一日、山科家には言継の妻の実家の嵯峨松尾社近辺からも小練が到来する。妻の父である葉室頼継は上洛に際し、たびたび山科家や禁裏に小練柿を届けている。

 天正四年(1576)十月、山科言継は葉室家から、柿や栗の小木を4、5本取り寄せ、自宅の「後苑」に植えている。このことは、右京嵯峨野あたりで、本格的な小練柿の栽培が行われていた状況を示唆しているという。

 嵯峨は江戸期になると、京都を代表する小練の産地として知られるようになる*4。実際、嵯峨妙心寺は、慶長期から寛永期にかけて、京都所司代の板倉重宗らに小練柿を200個〜300個贈っている(『妙心寺納下帳』)。生産が安定した段階に至ってもなお、小練柿は高級な贈答品としての需要が高かったことがうかがえる。

参考文献

  • 米澤洋子 「中世後期の柿の流通と生産活動ー山科東庄との関連においてー」(京都橘大学大学院論文『山科家の記録にみる中世後期の贈答に関する研究』 2020)

農業全書8菓木之類 (国立公文書館デジタルアーカイブ

*1:巻一の八飲食第廿八の六三七話。

*2:なお永禄三年(1560)の価格は10個が米17〜20合とされ、1個あたり米2合に等しく、かなり高価であったことが分かる。

*3:中国北魏末期、高陽郡太守であり農政家であった賈思勰によって書かれた農業技術書。6世紀前半の成立とみられる。

*4:正保四年(1657)刊行の『毛吹草』には、嵯峨の名産物として葡萄と共に小練が挙げられている。宇治は圓柿が記載されている。