沼田小早川氏庶子家・梨子羽氏の当主。仮名は又次郎。官途名は中務丞。平賀興貞の子で、同広相の弟。梨子羽康平の養子となって梨子羽氏の跡を継いだとみられる。小早川家中の上位にあり、出雲、伊予、備中などでの軍事活動が確認できる。
景行と景運
「梨羽家系図」によれば、梨子羽氏は宣平、景行、景宗と続いたとされる。一方で宣平と景行は、史料上では確認されておらず、同時代は景運のみがみえる。「かげゆき」の読みから、後世に「景行」と誤記されたものとみられる。
系図によれば「景行」は平賀興貞の三男(隆宗、広相の弟)で、宣平の養子となって跡を継いだ。兄広相の生年が大永八年(1528)であることから、景運は享禄年間から天文年間の初期の生まれと推定される。
したがって、後述の永禄年間以降にみえる梨子羽又次郎は、景運である可能性が高い。大永六年(1526)七月に沼田小早川氏の文書発給に関わった梨子羽康平の跡は、景運が継いでいたとみられる*1。
また毛利家臣団の事例では、ふつう官途は25歳を中心にその3年前後に授与されているという。これによれば又次郎時代の景運の年齢は30歳未満となる。
家中の立場
永禄四年(1561)二月五日の「小早川家座配書立」によれば、「梨子羽殿」(景連)の着座順は「椋梨殿」(弘平)に継ぐ2番目であった(「小早川家文書」)。これは小早川家中における序列を反映しているものとみられ、景運の家中における地位の高さをうかがうことができる。
なお「小早川家座配書立」において「梨子羽殿」の名は天正四年(1576)まで、いずれも「椋梨殿」の次、家中2番目の位置に確認できる。
毛利父子の雄高山城訪問
永禄四年(1561)三月二十六日、毛利元就・隆元父子は雄高山城の小早川隆景を訪ねるために吉田を出発し、椋梨まで進んで一泊。そこに「梨子羽又次郎」(景運)が一行を迎えるために参上している*2(「毛利家文書」)。
同月二十七日、元就・隆元父子は雄高山城に到着。翌日の二十八日、「会所」にて小早川氏による饗応が行われ、参加者リストにも「梨子羽又次郎」の名が見える。この時の初献で、毛利元就・隆元に太刀と馬が贈られ、景運が取次を務めた。
同月晦日、景運は小早川家臣・桂景信の私宅で饗応している。参加者は小早川隆景、平賀広相(景運の兄)、天野隆重*3、熊谷信直、「吉田供奉之衆」であった。
閏三月朔日、会所で元就、隆元、隆景らが出席する饗応が行われ、景運も参加している。翌日以降も行事が続き、元就、隆元らは閏三月六日に吉田への帰路についた。
小早川隆景の使者
年未詳*4九月十一日、小早川隆景は毛利家臣・山本肥前守宛に書状を送り、「兎角延引之条」について、先に「梨羽又次郎」から申し入れると伝えている(『萩藩閥閲録 遺漏』巻五之三)*5。
永禄九年(1566)十一月、出雲尼子氏が毛利氏に降伏。同月二十八日に尼子義久が富田城を出た。小早川隆景は豊前門司にいた冷泉元満に、出雲国における毛利方の勝利を伝え、詳細の説明を景運に託している(『萩藩閥閲録』巻102)。富田城開城当時、景運は小早川隆景に従って出雲国に在陣していたとみられる。
伊予への渡海
永禄十年(1567)、伊予南部の宇和盆地において、北上の動きを見せる宇都宮氏・土佐一条氏と、これを防ごうとする河野氏の間で緊張が高まっていた。河野氏は下嶋親忠を安芸国吉田に派遣して毛利氏に援軍を要請していたが、重臣・来島村上通康が十月二十三日に死去するという苦境にあった。
毛利家中では、小早川隆景が伊予出兵のために熱心に動いていた。同年十一月三日付の書状で、予州表のことについて、乃美宗勝にさまざまな指示を与えている(「乃美文書」)。この時点で、隆景や吉川元春らの本隊はまだ渡海準備中であったが、既に「梨子羽」、「裳新」(裳懸景利)、「井又」(井上春忠)の部隊が先陣として現地に到着していたという。
河野氏は当時、宇和盆地北端に二つの城を築いて守りを固めていた。安芸国からの援軍を得て、河野・小早川軍がとった作戦は、「加勢衆」は能島村上衆や下嶋親忠とともに一城に取り付き、もう一城(鳥坂城とも)は村上吉継ら来島村上衆が取り付くというものであった。
翌永禄十一年(1568)二月、鳥坂峠において、安芸国の援軍を得た河野軍が土佐一条氏の軍勢と戦い、大勝をあげる。この後、毛利氏の本隊が四月末までに到着し、宇都宮氏の本拠である大津・八幡山両城が陥落。宇都宮豊綱は備後三原に連行された。
厳島神社への寄進
天正三年(1575)七月二十一日、安芸国の厳島神社に対し「梨子羽中務丞 平景運」が銘来国行の刀を奉納し、武運長久を祈念している。
また天正十七年(1589)十一月以前、厳島神社の上卿修理進に対し、小早川隆景とともに梨子羽(景運)が寄進していたことが知られる。景運寄進は、梨子羽郷(安芸国沼田本荘)の米11俵、南京銭18貫文であった(「厳島野坂文書」)。
この頃、景運は平賀氏一門としての動静も確認できる。天正六年(1578)三月の「白鳥社祭礼事書」では、「御城」(平賀氏)と「家老」の間に「梨羽殿」が位置している(「平賀共昌集録「旧記」所収文書」)。
景運の家臣団
天正九年(1581)、景運は織田氏との戦争に動員され、備中国松島城(岡山県倉敷市)に在城していた。同年の「村山家檀那帳」には、備中松嶋にて伊勢神宮の御師に献納を行った人物として「梨子羽中務丞殿」(梨子羽景運)、「同 かミさま」、「同 若子さま」、「圓御堂」、「国定左馬介殿」(国定運忠)、「望月豊前守殿」(望月運相)、「田坂九郎右衛門尉殿」(田坂運利)、「大多和右衛門尉殿」(大多和運久または運正)がみえる。
「国定左馬介殿」以下の四名は、他の村山氏との音信から、実名が「運」で始まる事が確認できるという(「村山書状」)。いずれも景運の偏諱を受けた被官とみられる。
他に景運被官とみられる人物として、伊藤木工允康重と同運秀、小田内蔵丞らがいる。康重は景運の先代の梨子羽康平から一字を与えられた家臣と考えられており、景運の家臣団に康平からの繋がりをうかがうことができる。
景運の家族
上記の天正九年「村山家檀那帳」には「同 若子さま」とあり、景運の子の存在が確認できる。
この「若子」と同一人物であるか不明だが、永禄年間*6、景運の子と「青景息女」(大内家臣・青景隆著*7。の娘とみられる)との縁談が進んでいた。小早川隆景から毛利隆元に報告され、その承認も得られていたという(「住吉神社文書」)。
ただし、この縁談の結果は不明。「梨羽家系図」には「景行」(景運)の男子そのものがみえない。
そして景運の跡は、平賀元相(広相の嫡子)の次男が継承。景宗を名乗り、景運の息女を妻とした。梨子羽氏は景宗の代で小早川家を離れ、毛利輝元に仕えたという。
参考文献
- 田窪昭夫 「大内氏奉行人青景隆著についての小論 付 梨子羽景運考」(『山口県地方史研究』118 2017)
- 舘鼻誠・専修大学日本中世史ゼミ 「石塔と景観の語る中世ー安芸国小早川領を行く③」(『専修史学』第34号 専修大学歴史学会 2003)
- 村井良介 「「小早川家座配書立」について」(村井良介 『戦国大名権力構造の研究』 思文閣出版 2012)
- 山内譲 『海賊衆 来島村上氏とその時代』2014
- 岡部忠夫 編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房 1983
- 広島県 編 『広島県史 古代中世資料編Ⅱ』 1976
- 広島県 編 『広島県史 古代中世資料編Ⅴ』 1981
- 土居聡朋・村井佑樹・山内治朋 編 『戦国遺文 瀬戸内水軍編』 2012 東京堂出版
*1:ただし小早川隆景が沼田小早川氏を継承する天文十九年(1550)以前に景運が梨子羽氏を継いでいた場合、「宣平」が初名であった可能性もあるという。
*2:同日には椋梨治部少輔(弘平)も挨拶のため参上している。
*3:毛利家文書の「毛利元就父子雄高山城滞留日記」には、「保利殿」「保利中務少輔」とみえ、志芳堀天野氏の当主・天野隆重と同一人物と考えられている。
*4:書状の時期は弘治三年(1557)以降で永禄年間が下限とみられる。
*5:当時、山本肥前守に与える領地の支給が遅れていることが問題となっていた。山本肥前守は、毛利氏が天文二十一年(1552)頃に従属させた安芸国瀬野の国人・阿曽沼氏の家中に送り込んでいた家臣であったが、世能衆(阿曽沼氏)に給地が与えられる中、肥前守だけ遅延していたらしく、毛利元就が児玉就忠に調整を急ぐよう催促している(『萩藩閥閲録 遺漏』巻五之三)。
*6:隆景が毛利隆元に縁談の承認を得ている事から、隆元が死去する永禄六年(1563)以前の年とみられる。
*7:青景隆著は弘治二年(1556)に討死している(歴名土代」)。