戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

黒瀬 右京進 くろせ うきょうのじょう

 大内家臣。大永三年(1523)、安芸国東西条鏡山城の城番の一人。安芸国賀茂郡黒瀬村を名字の地とする黒瀬氏の一族か。

鏡山城陥落

 東西条鏡山城安芸国における大内氏の牙城だった。しかし大永三年(1523)六月、出雲国尼子経久および平賀氏や毛利氏ら安芸国諸勢力の攻撃を受け、陥落した。市地国松*1をはじめ主だった者約1000人が討死したとされており(『房顕覚書』)、城方は相当な死傷者を出したとみられる。

 七月、尼子氏重臣亀井秀綱が毛利家臣の粟屋元秀に、黒瀬右京進の「大内拝領賀茂郡之内参捨貫文」や「能美左馬丞」(蔵田安丸之内捨貫文)、「蔵田備中」(寺家之内参捨貫文)の給地を打ち渡している(『閥閲録』巻74)。大内氏鏡山城番の知行地を、没収して充てたものとみられる。

 十月、家督を継いで間もない毛利元就も、粟屋元秀に改めて「黒瀬右京亮」の給地を宛行っている。「右京亮」は「右京進」の誤記の可能性が高い。給地として「ともひろ名」、「もりとう名」、「よなミつ」、「いやすミ」が挙げられている。「よなミつ」は現在の東広島市八本松町米満とされるが、他の地名は不明。

出雲遠征で討死

 天文十五年(1546)四月、大内義隆は黒瀬長寿丸に父右京進の忠節に対する感状を与えた(「譜録」中島九郎兵衛忠興)。これは天文十二年(1543)五月七日、大内氏の出雲遠征の際、右京進が杉隆宣とともに討死にしたことによるものだった。

 杉隆宣は大内氏の東西条代官であり、右京進は彼に率いられて出陣していたのだろう。大永三年に鏡山城番だった黒瀬右京進と同一人物、またはその後継者と考えられる。

 なお天文十五年の大内義隆感状を載せる「譜録」の系図は「右京進」について、「中須賀某」あるいは「備後居住仕候由申伝候」としている。養嗣子だった可能性がある。

参考文献

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鏡山公園駐車場から眺めた鏡山城跡。

*1:鏡山城陥落の際に討死した。現在の東広島市西条町寺家の字に「市地」の地名が残る。