大内家臣。安芸国東西条鏡山城の城番の一人。安芸国能美島を本貫とする能美氏の出身か。
鏡山城陥落
東西条鏡山城は、安芸国における大内氏の牙城だった。しかし大永三年(1523)六月、出雲国の尼子経久および平賀氏や毛利氏ら安芸国諸勢力の攻撃を受け、陥落した。市地国松*1をはじめ主だった者約1000人が討死したとされており(『房顕覚書』)、城方は相当な死傷者を出したとみられる。
七月、尼子氏重臣・亀井秀綱が、毛利家臣の粟屋元秀に知行地を打ち渡している(『閥閲録』巻74)。知行地の以前の給人は「能美左馬丞」(蔵田安丸之内捨貫文)や「蔵田備中」(寺家之内参捨貫文)、「黒瀬右京進」(賀茂郡之内参捨貫文)らだった。大内氏の鏡山城番の知行地を、没収して充てたものとみられる。