道南の積丹半島の東の付け根・余市川河口部に形成された港町。現在の北海道余市郡余市町大川。中世、蝦夷地(北海道)に進出した和人の最前線となった。
最北の和人集落
近世松前家編纂の史書『新羅之記録』には、「抑も往古は、此国、上二十日、下二十日程、松前以東は陬川、西は與衣地迄人間住する事」とある。その後、志濃里の鍛冶屋村の事件をきっかけとして、康正二年(1456)から大永五年(1525)までの間に和人の里は破れ、生き残った者は皆松前と天河に集住したと、している。
少なくとも15世紀半ばまでに、和人は東は「陬川」(勇払郡鵡川町鵡川)、西は「與衣地」(余市郡余市町)まで進出して居住していた。しかし長禄元年(1457)のコシャマインの蜂起の影響があったのか、夷島の多くの居住地は放棄された。與衣地の和人たちは、上ノ国方面へと逃れたと推定される。
余市町大川遺跡
余市町大川遺跡の発掘調査によると、この遺跡の和人関係の中世遺跡は、13世紀末から15世紀中頃のもので、その最盛期は14世紀後半から15世紀前半のものであった。
中世の遺跡からは、12世紀末にさかのぼる珠洲焼が出土。14世紀後半・14世紀末葉の遺構からは、約100個体の中国陶磁や国産陶器(珠洲焼、瀬戸焼)が出土している。中世の陶磁器は、函館や上之国など道南で発見されていて、與衣地は、これら陶磁が発見される北限になっている。
そして15世紀前半の和人の住居跡には、例外なく数センチメートルから25センチメートルほどの焼灰層が上部に堆積している。また同地に居住していた和人の所持品である中国陶磁や瀬戸焼の10パーセントが、火の災害を受けていた痕跡を残しているという。アイヌとの抗争による戦火であったとすれば、『新羅之記録』の内容を裏付けている。
参考文献
- 榎森進 『アイヌ民族の歴史』 株式会社草風館 2007