備後国で生産された漆器。広島県福山市草戸町の草戸千軒町遺跡からは、多くの漆器とともに、へら等の漆塗りの道具も出土している。
平安期の備後の漆
備後国府跡(広島県府中市)では、漆が付着する須恵器などが出土。このことから、8世紀頃には漆の集積と塗布作業が行われたと考えられている。10世紀の『延喜式』では、漆の貢進国の一つに備後国が挙げられている。
草出(草戸)での漆器生産
備後国の芦田川河口付近に立地した港町・草戸*1 は、鎌倉期の13世紀中頃から16世紀初頭にかけて地域経済拠点として栄えたと推定されている。その遺跡である草戸千軒町遺跡からは、椀・皿などの食膳器を中心とする多数の漆器と、へらをはじめとする漆塗りの道具が出土している。草戸が、周辺地域に対する漆器の生産・供給の拠点であったことがうかがえる。
草戸では、漆器の普及品ともいうべき「渋下地漆器」*2の生産が行われていたとみられる。ただ、漆器の原材料となる轆轤挽き木地や未成品は、草戸千軒町遺跡から出土していないことから、木地挽きは草出の外の別の場所で行われていたと考えられている。製作工程の分業が進んでいたことも想定されるという。
草戸千軒町遺跡からは、漆の付着した泥岩製砥石も見つかっている。泥岩製砥石は、きめが細かく、中砥や仕上げ砥に向いており、漆工に使われたと考えられる。また漆が付着した砥石には、表面に多くの穴やえぐれがあり、「虫喰い砥」とも称された対馬砥石の特徴がみられる。
上質漆器の流通
一方で、出土漆器のおおむね半数は、時期によって変動があるものの、「地の粉漆下地漆器」が占めている。地の粉漆下地の漆器は、地の粉(鉱物粒子)を使った上質品。しかし、草戸千軒町遺跡から出土した工具には、地の粉漆下地漆器の製作に必要なものは確認されていない。このことから、他の産地から商品として搬入されたものと考えられている。
また型押漆絵の漆器も出土している。これは鎌倉期に特徴的にみられるもので、型押漆絵による加飾、いわゆるスタンプによって文様を表現した漆器を指す。漆器製作過程の簡略化と量産化を図ったものと考えられており、出土量は鎌倉市内の遺跡が圧倒的多数を占めている。草戸千軒町遺跡出土の物も、鎌倉からの搬入品である可能性が高いという。
漆塗り職人の高額取引
草戸千軒町遺跡の14世紀前半(鎌倉末期〜南北朝期)の遺構からは、「九月十九日十二貫三百」と記された木簡が出土している。この木簡には、漆が付着しており、同じ遺構には漆塗り用のへらが多く含まれていた。このことから、漆塗り職人(塗師)に関わるものと推定されている。
12貫300文は、草戸千軒町遺跡の木簡に記された金額の中では、高額の部類に入る。当時、草津の漆塗り職人が大きな取引をしていたことがうかがえる。