戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

草戸 くさど

 備後国南部、芦田川河口部の港町。鎌倉期に成立し、地域経済拠点としての役割を果たしながら、16世紀初頭まで存続した。なお集落の名称は時代によって「草津」、「草井地(くさいち)」、「草出(くさいつ)」、「草土(くさど)」、「草戸(くさど)」などと変遷する。本項では便宜上、「草戸」で統一する。

中世集落としての草戸の成立

 草戸千軒町遺跡の調査によれば、集落の成立は鎌倉期の13世紀中頃とみられる。この頃になると遺跡の中央部から北部にかけて、井戸や溝、土坑などの遺構が出現してくる。この区画は後の時代も草戸の中心的居住域として利用されており、出土遺物や遺構の質・量ともに他の区域を上回っている。いわば草戸の「中心区画」であった。

 この時期は「中心区画」を核に、方形を基本とする町割りが行われていたことが想定されている。また「中心区画」東縁には、南北の溝が掘られ、南端には大きな池が造られていた。造成工事の為の排水装置であったと考えられ、大規模な屋敷の造成が行われたことがうかがえる。

草戸の町の発展と拡大

 14世紀初頭から同世紀前半にかけて、草戸の町は、施設の構築・廃絶を繰り返しながら、急速に発展していったとみられる。「中心区画」の東側には、南から入り込む掘割が築かれている‘。これは集落に小舟を導き入れるための、いわゆる舟入であったと考えられている。

 また「中心区画」の一角のゴミ捨て穴から、数十点の木簡がまとまって出土している。内容は、商品や金融の取引に関するメモと考えられるものが圧倒的に多い。なかには、利子をとって銭を貸していたことを示す木簡、あるいは味噌の原材料の取引に関する木簡なども含まれている。商業・金融業・醸造業などに多角的にかかわる人物が存在していた可能性もあるという。

 さらに集落の南側の積極的な利用も行われるようになる。この地区でも掘割が構築されており、小舟を導き入れることが可能になっている。盛土による造成も行われ、東西方向の小溝や柵・塀などで区切った短冊形の区画が形成されてくる。短冊形区画は、南北の幅が10メートル程度、東西の長さが短いもので20メートル、長いもので100メートルにもおよぶ細長い区画が連なる。鍛冶などの生産活動が確認できる区画のほか、倉庫をともなう区画もあった。

14世紀後半の停滞

 14世紀後半、集落全体で多くの施設が廃絶され、遺構がほとんど確認できなるなる。何も記載されていない木札も出土しており、木簡を作成していた商業・金融業者が、突然その活動を停止した様な状況が確認できる。一方、洪水や火災といった災害の明確な痕跡も見つかっていない。

 停滞の原因は不明だが、鎌倉末期から南北朝期の混乱の影響を受けたとも考えられる。貞和五年(1349)、中国探題として鞆に滞在した足利直冬が、から「草津」を経由して尾道に移動している(『萩藩閥閲録』巻99)。また『太平記』にも、観応の擾乱の中で、観応二年(1351)に鞆に上陸した上杉朝定足利直義方)が「草井地」から高師泰足利尊氏方)を追撃したことが記されている。

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 ただ、芦田川東岸高水敷での発掘調査で、14世紀中頃から後半にかけての遺物がまとまって出土している。この時期の草戸の町は、全般的には停滞しながらも、中心的な居住域を移動させて存続していた可能性もあるという。

室町期の繁栄

 15世紀前半になると「中心区画」とその周辺区画で再び遺構が確認できるようになる。停滞期にいったん埋められた溝や池を掘り返すことによって、施設の再構築が図られたと推定されている。

 15世紀中頃から後半の時期、「中心区画」東側にとりつく掘割は石積による護岸で整備され、その近くには土蔵が建てられている。この土蔵跡からは、土壁を保護するために貼り付けたと考えられる生子瓦(土壁を保護するために壁の表面にはりつけた正方形の瓦)の破片が大量に出土している。中世の倉庫建築の系譜を考える上で、重要な資料になっているという。

 出土木簡は「中心区画」東側の掘割に集中。この区画の住人が、商業・金融活動や、税の徴収に関与していたことを示す内容が記されている。木簡の中には、「こい」という場所から「しやうせい(正税)」の「くしかき(串柿)」を送られた「いまくらとの(今倉殿)」という人物の存在を示すものもある。

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 またこの時期の「中心区画」は、塀や柵によって厳重に囲まれているという特徴がある。さらに区画内を東西・南北に分割する塀・柵も構築されていた。塀は、柱穴の状況から、柱と柱の間に板をはる板塀や、その上に壁土を塗った土塀であったと考えられている。防御性および耐火性を意識した町が、形成されていたことがうかがえる。

応仁・文明の乱

 15世紀後半、応仁・文明の乱の前後の時期に、草戸における経済活動は停止。「中心区画」東側の掘割が埋め戻され、木簡も大量に廃棄され、倉庫も焼失している。応仁・文明の乱による何らかの影響を受けたものとみられる。

 文明三年(1471)、東軍の山名是豊が坪生(福山市坪生町)に入り、「草土」にある西軍方の城を攻め、鞆へと陣を進めている(『三浦家文書』)。備後の「草土」を拠点とした備後渡邊氏は、是豊に従って東軍方で行動。しかし最終的に是豊の勢力は、備後地域から一掃され、渡邊氏も草土をはじめとする備後南部の領地を失ってしまったとされる(『渡邊紙先祖覚書』)。

町の終焉

 15世紀末には「中心区画」一帯で、塀あるいは柵などの施設が再び整備されてくる。ただ掘割は埋められたままであり、草戸の町の経済・流通機能は低下していた可能性は高いという。

 一方で、集落南部には、一辺が100メートルほどの大規模な方形の区画が出現。方形区画は、幅10メートルほどの環濠*1によって囲まれており、環濠の内側には土塁がめぐっていた痕跡も確認されている。これは、方形居館と呼ばれる領主層の居館とみられる*2。草戸の町は、北部の「中心区画」と南部に造られた環濠・土塁に囲まれた居館の二極に分かれた構造になっていたことになる。

 この方形居館は、しかし16世紀初頭、居館内の諸施設とともに周囲の環濠が人為的に埋め立てられ、廃絶した。環濠内からは、永正元年(1504)とみられる「甲子」の干支の記された位牌が出土している。居館の北の区画でも多くの施設が廃絶されており、草戸の町が放棄されたことがうかがえる。

関連人物

関連交易品

参考文献

  • 鈴木康之 『シリーズ「遺跡を学ぶ」040 中世瀬戸内の港町・草戸千軒町遺跡』 新泉社 2007
  • 広島県立歴史博物館 編 『中世民衆生活と文字ー木簡が語る文化史ー』 2000

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広島県立歴史博物館の草戸千軒展示室「よみがえる草戸千軒」。草戸千軒町遺跡の往時の町屋が再現されている。

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再現された足駄屋。足駄づくり職人の夫婦と息子が住んでいるという設定。父親は下駄の鼻緒に穴をあけており、息子は下駄の台を製作している。母親は夕食の用意をしている。という設定。

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再現された市場。船着場近くにあるという設定。

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銭塊(5貫文)。草戸千軒町遺跡出土品。孔に紐を通してつづったものを緡銭(きしぜに)と呼ぶ。1つの緡が97枚の場合が多く、つづって使う場合は100文として通用したという。

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舟形。草戸千軒町遺跡出土品。船形(ふながた)は舟を模した形代で、身の周りの災いなどを乗せて遠くへ流す、というまじないの道具として用いられたという。また、玩具や模型であったことも考えられる。

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舟材。草戸千軒町遺跡出土品。材の上下辺に釘や釘孔の列が残っており、舟の側面に付けられた舷側板とみられている。後に井戸側の井戸材に転用された。

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味噌用の大豆を売ったことが記された木簡。草戸千軒町遺跡出土品。

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闘茶札。茶の種類を飲み当てる闘茶の会で用いられた木札。14世紀中頃のもの。草戸千軒町遺跡出土品。

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永禄四年と書かれた断片。草戸千軒町遺跡のうち、墓地があったと推定されている地区付近から出土した。永禄四年(1561)、草出(草戸)は既に寂れていた。この断片は板塔婆とみられ、引き続き営まれていた墓地に供えられたものと考えられる。

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芦田川に架かる法音寺橋から見た草戸千軒町遺跡のあった中洲。草戸千軒町遺跡の調査により、中世の港町の姿が浮かび上がった。

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草戸愛宕神社付近から見た芦田川と草戸千軒町遺跡。

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明王院五重塔と本堂。明王院は草戸千軒町遺跡の西側の山裾にある寺院で、中世は常福寺と呼ばれた。五重塔南北朝期の貞和四年(1348)に、本堂は鎌倉末期の元応三年(1321)に、それぞれ創建された。いずれも沙門頼秀が建立に関わった。

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明王院常福寺)境内の墓石群。鎌倉期から室町期の石塔群と考えられている。1930年、芦田川改修工事中に法音寺橋近くから多数の石塔が出土した。宝塔、五輪塔、宝篋印塔、板碑がある。

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半坂地区の共同井戸。同地区の共同井戸は、道の要所に見られる。草戸地区と接する半坂地区は、道路の結節点として古代以降発達してきたと推定されている。このため、通行人に休息を供する場所として、共同井戸の役割が大きかったと考えられるという。

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半坂地区にある近藤左衛門尉の五輪塔南北朝期の永和三年(1377)、左衛門尉は讃岐から半坂山城に来たという。左衛門尉に関する物証は、他に何も残っていないとされるが、近くに永和三年に建立されたという金刀比羅宮があり、讃岐との関連がうかがえる。

*1:当初の環濠には長方形の土坑を連接させるいわゆる障子堀の部分もあったが、最終的には断面が逆台形の箱堀に改修されている。

*2:『渡邊紙先祖覚書』によれば、応仁・文明の乱からしばらくして、備後渡邊氏は許されて草土に戻り居館を構えたとしているので、この方形居館は備後渡邊氏のものである可能性がある。また同氏は永正年間に沼田郡山田(福山市熊野町)を領地として与えらえ、本拠地を草戸から山田に移したとされる。この本拠移転の時期は、草戸の町の廃絶の時期と一致する。