戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

毛抜形太刀 銘備州尾道五阿弥長行 けぬきがたたち めいびしゅうおのみちごあみながゆき

 備後一宮吉備津神社に伝えられた太刀。尾道で活動した刀工・五阿弥長行が制作し、天文二十四年(1555)に寄進された。毛抜形太刀と呼ばれる平安期の様式の模古作とみられ、舞楽の際に使用されたと考えられている。

舞楽太刀

 毛抜形太刀は、柄に毛抜形の透かしが施されることに由来する。平安中期頃に登場した太刀の一様式であり、日本刀の原型と考えられている。柄(鉄製)と刀身とが接合され、一体となるよう作られている(共鉄造り)。

 吉備津神社には「備州尾道五阿弥長行」の銘をもつ2口と、「正光」銘の2口、計4口の毛抜形太刀がある。いずれも平安期の毛抜形太刀の模古作と伝わる。『福山志料』巻34の舞楽道具が描かれた図に毛抜形太刀があることから、これらの毛抜形太刀は舞楽太刀として用いられたことが推測されている。同書には四人一組で舞楽を舞う図があり、そのうち二人が太刀を佩いている。

 吉備津神社では、鎌倉後期には舞楽が催されていた。弘安十年(1287)、時宗の開祖一遍が「備後乃一宮」に参詣した際に「秦王破陣楽」という舞楽が奏された場面が『一遍聖絵』に描かれている。「秦王破陣楽」は中国唐朝の第二代皇帝である太宗・李世民の時代に製作された四つの破陣楽のうちの一つであり、鎌倉期には日本に伝来していたことが分かる。なお「備後乃一宮」では通常催されない特別な舞楽であったという。

 また鎌倉末期、尾道浄土寺では嘉元元年(1303)から嘉元四年(1306)にかけて金堂、食堂、僧房、厨舎等の堂宇が造営され、嘉元四年十月に落慶法要が営まれた。十月十日の金堂供養大法会で三島舞童による奉納が行われた後、翌十一日の五部大乗経供養で備後国の「吉備津宮伶人」が舞楽を奏している(「浄土寺文書」)。このことから、吉備津宮の伶人舞楽の楽人)が備後国で広く活動していたことがうかがえる。

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五阿弥派

 前述のように吉備津神社には「備州尾道五阿弥長行」の銘をもつ2口の毛抜形太刀が伝わる。うち1口には下記のように刻まれている。

備州尾道五阿弥長行天文廿四年六月吉日吉備津宮奉寄進御太刀□□次郎左エ門尉忠吉

 天文二十四年(1555)六月に尾道の刀工・五阿弥長行が制作し、次郎左衛門尉忠吉という人物が吉備津神社に寄進したことが分かる。もう1口も五阿弥長行が制作し同様に寄進されたものとみられる。

 五阿弥(其阿弥)派は、三原派(三原鍛冶)の三原正家から分派した刀工集団で、室町期に尾道を中心に活動した。長行をはじめ、実行、定行、房行など「行」を銘に入れるものが多い。

 江戸期に尾道鍛冶・其阿弥清兵衛の差し出した覚書には以下のようにある。

私先祖打物鍛冶ニ而御座候、其節之銘不奉存候、六代目にいたり、遊行二代上人御廻国之節、於当地御札切小刀差上申候処、御称美被成、其阿弥と申号被下候由、至于今遊行上人当地へ御越之砌者、札切小刀差上申候

 時宗の開祖一遍の弟子である真教上人(他阿)が尾道を訪れた時、小刀を献上したおりに「其阿弥」(五阿弥)の名を授かったとされる。江戸期、かつて五阿弥家のあった尾道の鍛冶屋町では複数の鍛冶屋が営業し、需要の減った刀のかわりに農具や海運用具も製造したという。

参考文献

信西古楽図 (日本古典全集 ; 第2回) 秦王破陣楽
国立国会図書館デジタルコレクション

無言舞  『福山志科』巻34
国立公文書館デジタルアーカイブ

無言舞に使用した道具 『福山志科』巻34
国立公文書館デジタルアーカイブ