戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

吉原 通親 よしわら みちちか

 備後国世羅郡吉原(現在の広島県東広島市豊栄町吉原)の国人領主。仮名は次郎五郎。永正年間、毛利興元ら周辺の国人と盟約を結んだ。

備後国世羅郡の同盟

 永正年間(1504〜21)、吉原通親は近隣の国人領主である敷名亮秀(備後国世羅郡敷名)、上山実広(備後国世羅郡上山)および毛利興元安芸国吉田)と連名で以下のような盟約を結んだ(「毛利家文書」207)。

備州外内郡味方中少々雖心替候、労申合、国中之儀、一度各如本意可押返、可為議定候、然上者、此衆中、大小事届可被届申候、若此労内儀之意趣候者、申合、以和談之儀、無事之落着専一候、
万一於衆中、別心聊爾候者、日本国中大小神祇、殊者八幡大菩薩厳島大明神、吉備大明神、各可蒙罷御罰候、仍一筆如件

 備後国では「味方」の中にも少々心変わりしたものがあるが、この衆中では、大小の事に協力して元のように力を保持しようと申し合わせている。

 なお吉原通親の「通」は、備後北部の有力国人・山内氏からの偏諱ともされる。また敷名亮秀の「亮」は備後国三次郡三吉の有力国人・三吉氏の通字であり、上山実広の「実」は備後国三谿郡江田の有力国人・江田氏の通字であった。吉原、上山、敷名の三氏は盟約を結ぶ一方で、それぞれ別の有力国人にも属していたことがうかがえる。

 安芸国に本拠がある毛利興元であるが、同氏は文明七年(1475)以前よりこの地域に給地を得て勢力を浸透させていたこともあり、盟約に加わったとみられる。また大江広元を祖とする上山氏とは同族でもあった。

備後国人吉原氏

 毛利氏に仕えた吉原氏の譜録によれば、同氏は斎院次官藤原親能の子孫という。源頼朝から駿河国富士郡吉原の領地を得て「吉原」を名字とし、時期は不明ながら備後国に移ったとされる*1(『閥閲録』巻65)。

 吉原氏が拠点とした備後国世羅郡吉原は、もともと「則光」*2あるいは「乗光」と呼ばれていた。しかし明応六年(1497)九月に中村五郎三郎(親定)が山名俊豊から「備州吉原上口」合戦での負傷を賞されており(『閥閲録』巻72)、この頃には「則光」の地が吉原氏の所領であるという認識が一般的になっていることがうかがえる。

 江戸期の吉原氏の系図では、初代は吉原信濃守親行とされ、次に次郎兵衛尉親信、五郎兵衛尉親冬と続き、五郎兵衛尉元親に至る。このうち、親冬は天文十八年(1549)に没したとされており、吉原通親が盟約を結んだ永正年間は、親信か親冬の時代と考えられる。

 吉原通親は吉原氏を代表して盟約を結んでいることから、当時の当主であった可能性が高い。系図にみえる親行、親信、親冬は、前字が「親」となっており、これは通親を含めた惣領家からの偏諱を受けていたことを示す。五郎兵衛尉を名乗る親冬らの家は、惣領家の一族であったとみられる。

 一方で親冬の次の元親は、「親」を後字とし、前字は毛利氏から同氏の通字である「元」の偏諱を与えられている。このことから、かつての吉原氏惣領家が没落し、一族である五郎兵衛尉家が当主の座についたことが想定される。

 天文年間は、備後国において出雲尼子氏と周防大内氏の勢力が激しく争っていた。吉原氏惣領家の交代は、そのような戦乱の中で行われた可能性が高いとされる。

参考文献

東広島市豊栄町吉原

*1:別れて安芸国佐西郡厳島神主家に属した吉原氏もいた。

*2:建武三年(1336)七月十五日、「則光西方城郭」に小早川七郎と石井源内左衛門入道が立て篭もっている(「山内首藤家文書」)。また明応二年(1493)、山名俊豊が備後国の則光などを毛利弘元に安堵している(毛利家文書」157)。