戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

桂 保和 かつら やすかず

 安芸国高屋の国人・平賀氏の家臣。官途名は縫殿允、後に美作守。毛利氏庶子家・桂広澄の四男で、桂元澄の弟。父の自害後、毛利氏を離れて平賀氏に仕えた。一方で毛利氏との関係も維持していた。

「相合殿」事件と父広澄

 大永三年(1523)七月、毛利氏当主の幸松丸が早世。八月、毛利元就家督を継いだ。この後、毛利氏の一族である坂広秀と毛利家臣・渡辺勝らが、元就異母弟の「相合殿」を擁立する動きを見せ、元就によって粛清されたという(『毛利元就卿伝』)。

 近世成立の『陰徳太平記』によれば、坂広秀の従兄・桂広澄(保和の父)も責任を取って自害したとされる。後に毛利隆元桂元澄(広澄の長子で保和の兄)への書状で、「御方(元就)若年之時、親父以下不慮之儀」があったことについて触れている(「毛利家文書」)。

 この事件後、保和は毛利家を離れて平賀家に仕えることになった*1。保和の祖父・坂広明の娘が平賀弘保に嫁しており(「平賀家文書」)、これを頼ったともいわれる。なお坂広秀の子・保良も、保和と同様に平賀家に仕えているが、後に毛利氏に復帰している*2

桂保和の所領

 天文十二年(1543)六月、保和は平賀弘保から賀茂郡高屋保成子分や豊田郡小谷内の奥之垣内など合計32貫500文の所領を預けられた(「譜録」桂市郎右衛門保心)。さらに天文十七年(1548)十二月、平賀氏奉行人*3から豊田郡田万里景仁名(現在の竹原市田万里町)のうち、屋敷一所を含む計3貫100文の所領が打ち渡されている(「譜録」桂市郎右衛門保心)。

 田万里は、以前は沼田小早川氏庶流・小田氏の所領であったが、15世紀中頃から平賀氏・沼田小早川氏の両氏による係争地となっていた。永正七年(1510)頃には、平賀氏が支配を固めていたらしい*4

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 天文十八年(1549)二月、平賀氏奉行人・兼恒宗国から保和に対し、改めて所領が打ち渡された。内訳には高屋保成子分や小谷内奥垣内、田万里内景仁が含まれているが、合計は24貫文だった(「譜録」桂市郎右衛門保心)

 同年八月、平賀弘保は「御知行分不足之条」について、20貫の地を与えることを約束。併せて保和が「無別儀御同心」であることについて「誠頼敷候」と述べている(「譜録」桂市郎右衛門保心)。当時平賀氏は、弘保の子で当主の隆宗が七月三日に備後国神辺表で陣没していた。弘保は、家中の混乱を収拾しようとしていたのかもしれない*5。天文十九年(1550)二月、保和は平賀弘保から、田万里内景仁名の内で3貫文の地*6を新たに与えられている(「譜録」桂市郎右衛門保心)

沼田小早川氏への介入

 天文十九年(1550)、保和の所領・田万里と接する沼田小早川氏では、当主の小早川繁平を隠居させ、毛利元就の三男・小早川隆景*7に跡を継がせようとする動きがあった。

 これに対し小早川繁平は、高山の成就寺から庶子家・浦氏の拠点である忠海に脱出するという行動に出た。この時、保和が介入し、沼田小早川氏の「重書」(手継文書、各種証文)を押さえて小早川隆景に引き渡したらしい。この働きについて、後に隆景は「御忠勲之至候」と保和に伝えている(「譜録」桂市郎右衛門保心)

高杉城の戦い

 天文二十二年(1553)四月三日、備後国三谿郡三若の国人・江田隆連が出雲国尼子晴久に通じ、周防大内氏の陣営から離反。晴久率いる尼子勢も、出雲から南下して備後に入った。これにより備後北部では、尼子方と毛利氏を中心とする大内方の合戦が各地で行われた。

 七月二十三日、毛利勢が江田氏の支城・高杉城を攻撃し、同日中にこれを落とした(『森脇覚書』)。保和も平賀勢の一員として城攻めに加わっており、平賀広相から「分捕誠忠節無比類候」として感状を得ている(「譜録」桂市郎右衛門保心)。

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防芸引分と厳島合戦

 天文二十二年(1553)十月から大内氏重臣陶晴賢石見国人・益田氏らが石見津和野の吉見氏を攻撃。大内氏は毛利氏を中心とする安芸国人にも参陣を要請した。しかし毛利家中では対応をめぐって意見が割れ、このため平賀氏ら毛利氏に従う安芸国人も出動を見合わせる事態となった。

 天文二十三年(1554)二月、平賀氏のもとに毛利氏から離反するよう促す大内氏の使僧が訪れるが、弘保・広相父子はこれを毛利氏に引き渡している(「平賀家文書」)。同年三月、毛利氏は大内氏との断交および挙兵を決定。同年五月十一日、毛利元就・隆元父子は平賀広相に対し、その覚悟を伝えている。この時、書状を披露したのが桂保和と坂保良であった(「平賀家文書」)*8

 保和は天文二十四年(1555)十月一日の厳島合戦でも活躍。頸三つを討ち捕る功を挙げ、平賀広相から賞されている(「譜録」桂市郎右衛門保心)。

参考文献

  • 秋山伸隆 「毛利元就の生涯ー「名将」の横顔ー」(安芸高田市歴史民俗博物館 編 『没後四五〇年記念特別展 毛利元就ー「名将」の横顔ー』 2021)
  • 広島県 編 『広島県史 古代中世資料編Ⅴ』 1981

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高杉城の堀跡。天文二十二年(1553)七月、桂保和は高杉城攻めで功を挙げている。

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竹原市田万里町の風景。保和は、平賀氏から田万里景仁名に所領と屋敷を与えられた。

*1:実名の「保」は、平賀弘保の偏諱とみられる。

*2:天文十九年(1550)の毛利氏の家臣連署起請文に「坂新五左衛門尉保良」と署名している(「毛利家文書」)。

*3:三吉内蔵允和秀・山田治部丞元重・兼恒彦五郎保吉の三名。

*4:田万里八幡宮が所蔵する永正七年(1510)の棟札によれば、平賀弘保が大檀那となり、平賀頼次を代官として田万里八幡宮の造営が行われている。

*5:平賀隆宗の跡は、大内義隆の意向で平賀隆保が継いだ。隆保は沼田小早川氏の一族・船木常平の次男。父の死後、周防山口に移り、義隆の元に居た。

*6:坂井平兵衛尉の給地の内。

*7:天文十三年十一月、隆景は竹原小早川氏の跡を継いでいる。背景には毛利元就に対する大内義隆の強い働きかけがあった(「毛利家文書」)。

*8:桂保和と坂保良の両名は、この時以外にも、毛利氏と平賀氏の間を仲介する役割を担っている。