戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

上原 宗安 うえはら むねやす

 備後国世羅郡大田庄上原を本拠とする国人・上原氏の家臣。上原元将(元祐)の側近とみられ、織田方の羽柴秀吉との交渉を担当した。後に京極氏に仕えた。

羽柴秀吉の調略

 天正十年(1582)四月、織田氏部将・羽柴秀吉備中国に侵攻。宮路山城と冠山城を包囲した。これに対し、毛利方も小早川隆景が幸山城に陣を敷いて羽柴勢と対峙。宗安が仕える上原元将も毛利方の一員として出陣していたとみられる。

 同月二十四日、秀吉は来訪してきた上原宗安に対し、包囲中の両城の陥落は確実であり、次は幸山を包囲するので、その際に内応の約束を果たすことを迫る書状を託している(「上原苑旧蔵文書」)。上原元将と羽柴秀吉が、宗安を介して以前から交渉を進めていたことがうかがえる。

 また秀吉は、海上では塩飽衆、能島村上氏来島村上氏が人質を出して城を明け渡していること、東国では甲斐武田勝頼が首を刎ねられ、関東だけでなく奥州も平定する方針であること、織田信長も間も無く備中に出陣し、同時に伯耆国方面からも軍勢が差し向けられること、等の情勢を伝えている。実際には能島村上氏は毛利方に留まっており、秀吉が上原氏に伝えた情報には虚偽が含まれていた。

寝返りの発覚

 天正十年(1582)六月、上原元将は羽柴勢が包囲する備中高松城南方の日幡城に入っていた(『萩藩閥閲録』巻53)。元将は自身の本拠に近い備後国世羅郡伊尾を領する湯浅将宗にも寝返りを誘ったが、将宗が毛利方に密告したことで露見(『萩藩閥閲録』巻104)。

 元将の居城*1は楢崎元兼によって陥され、元将の妻(毛利元就の娘)は安芸吉田に送られた(『萩藩閥閲録』巻53)。また元将の旧領は湯浅将宗に与えられている(『萩藩閥閲録』巻104)。

kuregure.hatenablog.com

京極高次に仕える

 寝返り露見前後の上原宗安の動向は不明だが、その後、京極高次に仕えたらしい。高次は羽柴秀吉に仕えて近江国高島郡を領していた。年未詳九月十八日、宗安は高次から高島郡田井村(石高580石6斗3升)の代官職を命じられている(「上原苑旧蔵文書」)。

 なお宗安の子とみられる上原木二も京極氏に仕えた。年未詳六月、京極忠高(高次の子)に信楽の茶壺を献上して礼状をもらっている(「上原苑旧蔵文書」)。

参考文献

  • 甲山町史編さん委員会 編 『甲山町史 資料編Ⅰ』 甲山町 2003
  • 山口県文書館 編 『萩藩閥閲録』第二巻 1968

上原元将が入った備中日幡城跡

*1:現在の広島県世羅町上原にある沼城跡か。