備後国世羅郡大田庄桑原郷の集落。現在の広島県世羅郡世羅町伊尾。初期の大田庄の開発を担った橘氏、および鎌倉初期に地頭となった三善氏の本拠地となった。戦国期は尾首城主であった湯浅氏の本拠となり、同氏によって大通、近森の両地区の開発が進められた。
大田庄の成立と在地領主
伊尾村は、平安期の『和名抄』にみえる備後国世羅郡4郷のうちの桑原郷に属す。11世紀前後、桑原郷伊尾を本拠とした在地の豪族・橘氏*1が、後に西隣の大田郷と併せて開発。永万二年(1166)、後白河上皇を領主、平重衡(清盛の子)を預所(荘園の責任者)として荘園・大田庄が成立した(「丹生文書」)。橘氏は下司として荘園支配の実務を担ったとみられる。
平安末期に平氏が滅亡すると、後白河院は文治二年(1186)に内乱の死者供養を名目として、有力寺院であった紀伊国の高野山金剛峯寺に大田庄を寄附(「宝簡集1」)。新たに大田庄の領家となった高野山は、同地に支配拠点として今高野山を建立するとともに、桑原郷地頭(下司)・橘氏に赤屋郷の開発を命じるなど積極的に荘園支配に関わった(「又続宝簡集142」)。
一方で高野山と橘氏の対立は、建久元年(1190)には表面化していた。同年十二月、高野山は下司・橘兼隆と大田(橘)光家の乱妨・押領を停止させるよう後白河院に訴えている(「宝簡集5」)。そして遂に建久七年(1196)、大田庄が四分割されて、それぞれ高野山僧が庄務を担うこととなり(「宝簡集2」)、橘氏の勢力は減退する。
さらに橘氏は、正治元年(1199)までには謀反の罪で関東に召し下され、代わって大田庄地頭職には幕府の問注所執事であった三善康信が補任された(「高野山御影堂文書」)。以後、三善氏は地頭職を世襲し、領家である高野山と時に対立しながら、在地支配をすすめることになる。
大田庄の地頭方拠点
嘉禎元年(1235)の三善康連(康信の子)の陳述によれば、伊尾村には「前下司(橘)兼隆屋敷」があったとされる(「宝簡集5」)。また嘉禄元年(1225)、康連は高野山の預所に対し、伊尾村の下津屋には往古より「地頭氏寺」があったことを伝えている(「又続宝簡集50」)。橘氏に代わって大田庄地頭となった三善氏は、橘氏の伊尾における屋敷等の施設を踏襲したとみられる。
橘氏屋敷の場所は伊尾の本地地区が候補に挙げられている。同地区内には「竹ノ下」(地頭屋敷の所在した場所に多い地名)、「的場」、「堀」、正田」(荘田あるいは城田)などと呼ばれるところに小名や家の姓がみられ、この辺りに館があった可能性を示している*2。
本地地区東隣の下津屋地区には、上述のように地頭氏寺があったとされる。また高野山はこの地に政庁として政所を設置したらしい(「又続宝簡集50」)。付近には「東覚坊」、「大坊」、「後大坊」、「本土坊」などの寺院跡をうかがわせる屋号が残っており、古くから寺々があったことが分かっている。また現在の下津屋十二坊跡*3には、寺跡や土塁が残り、中世の五輪塔群や宝篋印塔なども散在しており、往時の繁栄を物語っている。
これらのことから、大田庄の開発初期においては、伊尾の本地と下津屋の両地区が、政治・経済・文化(信仰)の一大中心地であったことがうかがえる。
室町期の伊尾
室町期になると、備後守護・山名氏による大田庄への関与が強まる。伊尾には山名氏被官・下見氏が進出。伊尾の高村地区では、昔から「シモミ」と呼ばれていた場所で一辺100メートルの居館跡が見つかっており、下見氏の平時の居館跡と推定されている。また同氏は伊尾の鳶が丸城(城が平山)を居城としていたと伝えられる。
下見氏の具体的活動については、享徳三年(1454)二月に下見泰綱が海裏(宇津戸)の鋳物師・丹下三郎左衛門尉を備後国鋳物師惣大工職に任じたことが確認される(「木下文郎家文書」)。しかし明応三年(1494)三月二日、山名俊豊(宗全の曾孫)が下見次郎左衛門尉の旧領だった大田庄桑原郷を、山内大和守*4に与えているから、この時没落していたのかもしれない。
なお下津屋十二坊は、15世紀後半の段階では残存していた。文明三年(1471)の尾道西国寺の寄附名簿に、「下津屋山衆」惣中が1貫文の寄附を行っていることがみえる*5。
戦国期の伊尾
戦国期の伊尾には、尾首城を居城とする湯浅氏がいた。湯浅氏は当初は山名氏被官であったとみられるが、後に周防大内氏に属し、安芸毛利氏が大内氏から離反すると毛利氏に属した(『萩藩閥閲録』巻104)。
伊尾の大通地区の芦田川沿いにある土居屋敷遺跡は、元はこの湯浅氏の下屋敷であり、天正十六年(1588)に土屋氏の先祖が譲り受けたと伝えられている(「土屋家文書」)。遺構からは龍泉窯系の青磁茶碗、備前焼甕・すり鉢等、唐津系陶器、伊万里系磁器などが出土。15世紀後半を下限とする遺物とみられている。
土居屋敷のある土屋氏の屋号は「土居」という。明治時代の地籍図によると、芦田川に合流する片田川に沿って「中土居」「向土居」「重土居」「上土居」の屋号があった。このことから、本流の芦田川よりも、支流である片田川を利用して、この地区の開発が行われていたことがうかがえる。
また大通地区の「大通」という小字名は、「土居」のすぐ傍を通る道が、鳳林寺(湯浅氏の菩提寺か)に通じる参道であったことから名付けられた可能性が指摘されている。鳳林寺の前には「栗宗屋敷」と呼ばれる屋敷跡の存在が伝えらえており、この道はかつては町屋のようなものの中心プランだったことも考えられるという*6。
文禄五年(1596)二月、検地が実施された伊尾村の所領が改めて湯浅将宗に宛行われた(「萩市郷土博物館所蔵文書」)。これによると、当時の伊尾村は田が87町余、畠が13町余、屋敷が123ヶ所(寺を含む)あったことが分かる。
参考文献
*1:橘氏は備後国の国衙(国家の地方自治機関)の役人を系譜にもつ一族で、平安末期には地方豪族かしていたと考えられている。
*2:また同地区の荒神社には、平安末期から鎌倉・室町期そして江戸中期までの和鏡が伝世している。少なくとも鏡を奉納するだけの有力者がこの辺りに存在していたことがうかがえる。
*3:江戸期編纂の地誌『芸藩通志』によると、「本道坊」「成道坊」「寂光坊」「大乗坊」「一乗坊」「本覚坊」「大坊」「中道坊」「円満坊」「東光坊」「梧台坊」「普門坊」の十二の坊名が記されている。
*4:備後北部地毘荘を本拠とする国人・山内氏の一族か。同じく明応三年(1494)三月二日、山名俊豊は大田庄内の上原代官職を山内豊成に補任している。
*5:近隣では「今高野衆」惣中や、その子院、僧侶らが寄附を行っている。
*6:「土居」周辺には小字より小さい地名である小名として、周辺の耕作地に「コウモト」「ソデノマチ」「ハタケダ」「ヤシキマチ」などの呼び名が伝わっている。